老中首座となった松平定信が田沼派の無能な同僚をクビにしたいのにできなかった切実な理由
定信派を創出するためには、田沼派の人物を次々に免職するのが手っ取り早いと思われるかもしれませんが、それは簡単にはいかなかったのです。
石見国浜田藩主などを務めた松平康福は、天明元年(1781)には老中首座に任命されるなど、定信の先輩とも言うべき人物ですが、田沼派でした。
間に合せを好み、投げやりの方である
定信は松平康福の人物評を残していますが、それによると「温厚」「何の害もこれ無」くというような人物だったようです。
間に合せを好み、投げやりの方(人物)であるとも、定信は非難しています。そうであっても、定信は康福をすぐに取り払うことはできませんでした。なぜか。定信自身の言葉を借りて説明すると「今すぐに、康福を罷免してしまえば、世評(世の中の評判)はかえって(康福を)不憫と申すであろう」からだと言うのです。
60代と老齢で、しかも温厚な康福を免職とすれば、世間の人々は、彼を不憫とする。そうなれば、定信が非難の的になるから、康福を取り払うことができなかったのです。
さて駿河国沼津の大名・水野忠友は、田沼意次の4男(田沼意正)を養子とし、天明5年(1785)には老中に出世。勝手掛(財政専門の老中)なども兼務していました。
そんな忠友も、定信はすぐに罷免することはできません。定信は忠友を「篤実」(情に篤く、誠実)と評価。しかし「何の害もこれ無く」と康福評と同じようなことも記しています。
定信が忠友を罷免できなかった理由は「他に勝手掛を仰せ付けられる人もいなかった」ためでした。つまり、代わりの人間がいないからだと言うのです。忠友は定信曰く篤実とのことですので、これまた、そんな忠友を定信が罷免すれば、世間の非難が定信に集中することも懸念されたのかもしれません。
牧野貞長は、常陸国笠間8万石の大名であり、天明4年(1784)に老中に就任した人物ですが、定信によると現在のところは「害は見えない」とのこと。
ところが、藩の財政が窮乏していることから、その家来たちがおいおい、賄賂を貪ることになるかもしれないと、定信は心配しています。だが、現状においては、害がないので、罷免はしないと言うのです。
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