文科省の論点整理は、論点がズレている?

教員による相次ぐ不祥事などによって、これまでになく教員の資質への厳しい視線が社会から注がれている。もっとも、問題を起こしているのはごくごく一部で、全体の質がどうだこうだとセンセーショナルに騒ぐのは賢明とは言えないが、一部でも大きな問題と言えるし、教育委員会等が把握できていないものもあるだろう。

教員採用試験の倍率低下、人材不足(教員不足)の慢性化も進んでおり、「日本の学校は大丈夫か?」と感じている人も多いのではないだろうか? こうした中、中央教育審議会(以下、中教審)では、どのような政策が重要かを検討していて、先般「論点整理(案)」という方向性が出された。だが、「論点がズレまくり」ではないかと思う。

小中学校の教員免許を取得するときに必須とされている福祉施設などでの介護等体験の「見直しを検討」と書いていること以外は、ほとんど評価できない。とはいえ、今ならまだ軌道修正は可能だ。そこで以下では、文科省・中教審の考えを紹介しつつ、どこに問題があるのかを解説、議論したい。

妹尾昌俊(せのお・まさとし)
教育研究家、一般社団法人ライフ&ワーク代表理事
徳島県出身。野村総合研究所を経て、2016年に独立。全国各地の教育現場を訪れて講演、研修、コンサルティングなどを手がけている。学校業務改善アドバイザー(文部科学省委嘱のほか、埼玉県、横浜市、高知県等)、中央教育審議会「学校における働き方改革特別部会」委員、スポーツ庁、文化庁において、部活動のあり方に関するガイドラインをつくる有識者会議の委員も務めた。Yahoo!ニュースオーサー。主な著書に『校長先生、教頭先生、そのお悩み解決できます!』『先生を、死なせない。』(ともに教育開発研究所)、『教師崩壊』『教師と学校の失敗学』(ともにPHP研究所)、『学校をおもしろくする思考法』『変わる学校、変わらない学校』(ともに学事出版)など多数。5人の子育て中
(写真は本人提供)

今回検討するのは、中教審・教員養成部会の「多様な専門性を有する質の高い教職員集団の形成を加速するための方策に関する論点整理(案)」(本年9月19日資料、以下、論点整理案)

タイトルが示すように、社会人経験者など多様な人材が教職を目指すようになるための制度や、教員の質を維持・向上させるための養成(大学等の教職課程)、採用、研修のあり方などを審議している。なお、私はこの部会の委員ではないので、資料から読み取れることを第三者的に見て、論じる(加えて、文科省の担当課に不明な点を尋ねた)。

現時点では、いわば中間まとめ段階のものであって決定事項ではない。今のうちから、文科省・中教審の考え方や暗黙の前提・仮定について、批判的に考察しておくことが重要だと思う。検討事項は多岐にわたるので、ここでは一部を抜粋して、以下の3点を中心に見ていく。

【①スーパーマンモデル】個々人の能力向上への依存が強く、一人に過度な期待と負荷
【②即戦力重視で近視眼的】すぐに使える技術優先で、憲法、教育原理等の中長期に重要なことを軽視か
【③やりがいPRに傾斜】魅力・意義をもっと知ってもらえば事態は好転すると楽観視

※中教審・教員養成部会のそのほかの詳しい資料はこちら

【① スーパーマンモデル】個々人の能力向上への依存が強く、一人に過度な期待と負荷

一言でいうと、文科省・中教審は欲張りだ。教員を目指している学生や現職教員に、あれもこれもできる人材を求めているようである。論点整理案から一部引用しよう。

○ 教職生涯を通じて、例えば
● 子供たちが主体的・対話的で深い学びを通じて資質・能力を育めるよう、学習者本位で自律した学びをデザインする能力 (以下一部略)
● 個別の知識の集積に止まらない概念としての習得や深い意味理解を促すとともに、学ぶ意味、社会やキャリアとのつながりを意識した指導を行える能力
● 予測困難な課題に直面しても、目の前にいる子供を見つめ抜いて、課題の本質を明らかにし、その解決に向けた手だてを的確に講じることができる能力
などを形成していくことが求められるのではないか。
〇 幼児教育、自殺予防やいじめ対応、心理・福祉、学校安全、発達障害等の障害の特性やその配慮、日本語指導が必要な児童生徒、児童生徒性暴力等をはじめとした非違行為の防止を含む教師としての倫理観及び危機管理能力等に関する学修についても、どのような内容を共通的に履修すべきかを検討するとともに、主体的な学修や実践的な学修を取り入れるなど大学等における教育方法についてもより深化させていくことが必要なのではないか。

このように述べたうえで、「通級による指導や特別支援学級の現状等を踏まえ、全ての教師が特別支援教育に関する専門性を修得することが必要ではないか」などとしている。自律した学びをデザインでき、深い意味理解を促すこともでき、課題の本質を明らかにでき、幼児教育や自殺予防、心理・福祉等への十分な配慮もでき、なおかつ特別支援教育の専門性もある。

相当レベルの高い理想を、いくつも掲げているように見える。引用した前段は「教職生涯を通じて」と書かれているように、採用時にすべて必須とされているわけではないが。とはいえ、大学などでもこの方向性で資質・能力を高めることが想定されており、理想ばかり高い。

どれだけスゴイ人材、スーパーマン、スーパウーマンを期待しているのだろうか。

しかも、文科省・中教審のペーパーから窺えるのは、個々の教員の資質・能力の向上を図ろうとする個人(個人主義的)モデルである。サッカーでたとえると、個人技ばかり磨こうとしているうえに、ひとりの選手に、フォワードも、ディフェンスもやれ、シュートも守りもあらゆることにうまくなれ、と言っているようなものではないか。

今回の文書のタイトルだけ「教職員集団」と銘打っているだけで、苦手なことを補いあったり、強みを切磋琢磨したり、チームワーキングを高めたりする発想は、論点整理案からは皆無に見える。「組織」あるいは「チーム」という言葉すら一言も出てこないのだから(もっとも言葉を出せばよいという話でもない)。

これまで文科省と各地の教育委員会がやってきたことはどうだったか。またたとえ話をすると、学校ならびに教職員(教員ならびにスタッフ)に求められるものをどんどん増やし、ハードルを上げ続けてきた。だが、足もとで現実に増えているのは「そんな高いハードル跳べません」、「無理っ!」と棄権する若者たち(教員採用試験等を受けようとしない)と中途退職する人たちだ。

【②即戦力重視で近視眼的】すぐに使える技術優先で、憲法、教育原理等の中長期に重要なことを軽視か

引き続き、論点整理案から引用する。

〇 常に進化し続けるデジタル学習基盤を前提とした教育方法が身につく教職課程とすることが必要ではないか。(中略)
〇 教職に関する基本的な法令や指導方法等の知識について、デジタルを活用して習得・確認できるシステムを構築できれば、教師を目指す学生の学び方を柔軟にし、教職課程の在り方を含めた大学等における教師養成の仕組みを、質を落とさず再構築することにつながるのではないか。(中略)
〇 一人でも多くの優秀な者が教職を目指してくれるよう、単位数の見直しも含めて検討することが必要ではないか。また、制度の見直しを通じて複数免許の取得を促進し、専門性の向上等を図っていくことが必要ではないか。
〇 現状、教員免許を取得するためには単位数が多く、取らなければならない授業という形になってしまっているのではないか。
〇 教育職員免許法施行規則第66 条の6(引用者注:憲法、体育等)については、各大学等が創意工夫を生かした柔軟な教育課程を実現するという観点から、教員免許取得に至る学びを総合的に再構築する中で当該条項の見直しを図るべきではないか。

こうした記述について、教員免許を取得するうえで単位数が多いなど、学生側の負担に配慮していくことは、賛成だ。だが、難題なのは、どのような科目、単位を精選するか、もしくは選択的にしていくかということだ。学習指導要領の検討でも似ているが、負担軽減が大事だという総論は賛成したとしても、じゃあ何を削れるのかという各論は反対意見が噴出しやすい。

小学校教諭について見ると、現在の制度では次の図の科目、単位を取得する必要があり、もっとも一般的な一種免許の場合、59単位+憲法、体育等の8単位の67単位必要だ。

現時点の案では、憲法や教育原理(教育の理念、歴史、思想等)を減らすとは明言していないものの、論点整理案から示唆されるのは、こうした科目は、どこの大学などで受講しても共通して重要なことを履修すればよいので、動画などでオンデマンド学習させて、CBT(コンピュータ上でのテスト)で知識を確認すればよい、という発想だ。

だが、本当にそれでいいのだろうか。合理性の疑わしい校則(あるいはハラスメントとも言える生徒指導)が長年残り続け、また、子どもの意見表明が学校教育の中で、これまであまり尊重されてこなかったのは、なぜだろうか。

その一因には、自由をはじめとする権利が容易に侵害されてきたこれまでの歴史の理解や、憲法をはじめ法令で権利を保障してきたことの理解が、現職教員にも、学生にも足りていないことがあるのでは、と思う。もちろん、校則を見直したあと、地域等からのクレームが増えては面倒だといった心配が影響しているなど、ほかの背景事情もあるとは思う。

憲法や教育原理を深く理解するためには、動画を見て、4択などのちょっとした確認テストを受講すればOKといったことで、十分なのだろうか。ICTを活用することは賛成だが、表面をなぞるような学習ではなく、理念を具体的な諸問題とも照らしながら考えていく、ときには議論しながら、自分の固定観念や思い込みを省察していくような学びも必要なのではないか。

ICTやAIが重要となったので、教職課程にもっと入れようといった即戦力重視の発想が強いのではないか。むしろ、こうした技能は採用後のトレーニングでも向上させることができるし、大学等で学んだところですぐに状況が変わる。憲法や教育原理の深い理解は、即効性はあまりないかもしれないが、教職人生通じて大事となる。オンデマンド学習を促すなら、情報活用力関連が向いているのでは、と思うのは私だけだろうか?

また、学生の負担軽減に配慮するなら、教科指導の科目の精選にもっと踏み込むべきではないか。先の図のとおり、小中の場合、取得単位のうち約半数を占めるのが、教科ならびに教科指導法についての科目だ。

①のスーパーマンモデル、個人モデルとも関連するが、小学校免許で、あらゆる教科を修得することを求め続けるべきなのだろうか。中高ほど教科ごとにならなくても、例えば、人文・社会系、理数系、体育・芸術系などのうち1つ選択するといった免許にすることは、荒唐無稽なアイデアだろうか?

【③やりがいPRに傾斜】魅力・意義をもっと知ってもらえば事態は好転すると楽観視

続いて、採用、人材獲得について。当然ながら、教師はかくあるべしという理想をいくら高く掲げても、キレイな言葉を並べたてても、それに見合う人材がエントリーしてくれないならば、絵に描いた餅になる。論点整理案から引用する。

○ 多くの方に教師を目指してもらうために、働き方改革を含め、教師の魅力をいかに高めていくかを検討していくことが必要ではないか。教職員定数の改善や支援スタッフの充実など、教師を取り巻く環境の更なる充実が不可欠ではないか。その上で、教職の魅力向上に関する取組についての社会的な理解も必要ではないか。
〇 教師は他の公務員だけでなく、他職種と同じ市場で人材獲得競争をしているという現実を前提に、採用戦略を設計することが必要ではないか。教師の採用広報を教育委員会だけに委ねることには限界があり、国と地方が一体となった広報戦略が必要ではないか。あわせて、教職は将来を創造する人材を育成する中核的な職業であり、国主導で教職の社会的意義を再発信することも必要ではないか。(中略)
〇 高校生に教職の魅力に直接触れるような体験や教職課程の科目を先取りできる機会を積極的に提供するなど、早期の人材獲得戦略も進めていくべきではないか。

教員免許を取ろうとしない、あるいは採用試験を受けない、採用試験に合格しても他へ就職する学生などが相当数に上るのは、はたして、教師という仕事の魅力や社会的意義の発信が足りていないからなのか。

大学生などへの調査結果から示唆されるのは、わざわざたくさんの単位を取って教員免許を取得しようとするのは、自身が小中学生などのときに出会った先生が影響している。やりがいや魅力は程度の差はあれ、感じている人が多い。

問題は、自分は授業や子どもとの関係づくりがうまく進められるか、保護者からきつく言われたとき大丈夫だろうか、ハード過ぎてついていけるだろうかといった不安のほうではないか(関連記事)。

また、文科省・中教審が述べるように、国主導で広報を強化したところで、効果はあるのだろうか。「#教師のバトン」が炎上して、その後、文科省はほったらかしである。国主導でうまくいく自信はどこにあるのだろうか。まったく、文科省・中教審の委員は、お花畑な発想である。

ほかにも論じたいことはたくさんあるが、3点に整理してお話しした。ちょっと考えたら気づくようなことだと思うが、なぜ、こんな案になってしまうのか。1つは、これまで文科省や教育委員会がやってきたことへの振り返り、反省がまったくないからではないだろうか。

あさってな方向の施策ばかり講じて、対策してますポーズだけとられても、迷惑だ。時間を浪費しないで、これまでのよかったところは続けつつ、軌道修正が必要なところはしっかり直視してほしい。

(注記のない写真: Fast&Slow / PIXTA)