①のスーパーマンモデル、個人モデルとも関連するが、小学校免許で、あらゆる教科を修得することを求め続けるべきなのだろうか。中高ほど教科ごとにならなくても、例えば、人文・社会系、理数系、体育・芸術系などのうち1つ選択するといった免許にすることは、荒唐無稽なアイデアだろうか?
【③やりがいPRに傾斜】魅力・意義をもっと知ってもらえば事態は好転すると楽観視
続いて、採用、人材獲得について。当然ながら、教師はかくあるべしという理想をいくら高く掲げても、キレイな言葉を並べたてても、それに見合う人材がエントリーしてくれないならば、絵に描いた餅になる。論点整理案から引用する。
〇 教師は他の公務員だけでなく、他職種と同じ市場で人材獲得競争をしているという現実を前提に、採用戦略を設計することが必要ではないか。教師の採用広報を教育委員会だけに委ねることには限界があり、国と地方が一体となった広報戦略が必要ではないか。あわせて、教職は将来を創造する人材を育成する中核的な職業であり、国主導で教職の社会的意義を再発信することも必要ではないか。(中略)
〇 高校生に教職の魅力に直接触れるような体験や教職課程の科目を先取りできる機会を積極的に提供するなど、早期の人材獲得戦略も進めていくべきではないか。
教員免許を取ろうとしない、あるいは採用試験を受けない、採用試験に合格しても他へ就職する学生などが相当数に上るのは、はたして、教師という仕事の魅力や社会的意義の発信が足りていないからなのか。
大学生などへの調査結果から示唆されるのは、わざわざたくさんの単位を取って教員免許を取得しようとするのは、自身が小中学生などのときに出会った先生が影響している。やりがいや魅力は程度の差はあれ、感じている人が多い。
問題は、自分は授業や子どもとの関係づくりがうまく進められるか、保護者からきつく言われたとき大丈夫だろうか、ハード過ぎてついていけるだろうかといった不安のほうではないか(関連記事)。
また、文科省・中教審が述べるように、国主導で広報を強化したところで、効果はあるのだろうか。「#教師のバトン」が炎上して、その後、文科省はほったらかしである。国主導でうまくいく自信はどこにあるのだろうか。まったく、文科省・中教審の委員は、お花畑な発想である。
ほかにも論じたいことはたくさんあるが、3点に整理してお話しした。ちょっと考えたら気づくようなことだと思うが、なぜ、こんな案になってしまうのか。1つは、これまで文科省や教育委員会がやってきたことへの振り返り、反省がまったくないからではないだろうか。
あさってな方向の施策ばかり講じて、対策してますポーズだけとられても、迷惑だ。時間を浪費しないで、これまでのよかったところは続けつつ、軌道修正が必要なところはしっかり直視してほしい。
(注記のない写真: Fast&Slow / PIXTA)
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