現時点では、いわば中間まとめ段階のものであって決定事項ではない。今のうちから、文科省・中教審の考え方や暗黙の前提・仮定について、批判的に考察しておくことが重要だと思う。検討事項は多岐にわたるので、ここでは一部を抜粋して、以下の3点を中心に見ていく。
※中教審・教員養成部会のそのほかの詳しい資料はこちら
【① スーパーマンモデル】個々人の能力向上への依存が強く、一人に過度な期待と負荷
一言でいうと、文科省・中教審は欲張りだ。教員を目指している学生や現職教員に、あれもこれもできる人材を求めているようである。論点整理案から一部引用しよう。
● 子供たちが主体的・対話的で深い学びを通じて資質・能力を育めるよう、学習者本位で自律した学びをデザインする能力 (以下一部略)
● 個別の知識の集積に止まらない概念としての習得や深い意味理解を促すとともに、学ぶ意味、社会やキャリアとのつながりを意識した指導を行える能力
● 予測困難な課題に直面しても、目の前にいる子供を見つめ抜いて、課題の本質を明らかにし、その解決に向けた手だてを的確に講じることができる能力
などを形成していくことが求められるのではないか。
このように述べたうえで、「通級による指導や特別支援学級の現状等を踏まえ、全ての教師が特別支援教育に関する専門性を修得することが必要ではないか」などとしている。自律した学びをデザインでき、深い意味理解を促すこともでき、課題の本質を明らかにでき、幼児教育や自殺予防、心理・福祉等への十分な配慮もでき、なおかつ特別支援教育の専門性もある。
相当レベルの高い理想を、いくつも掲げているように見える。引用した前段は「教職生涯を通じて」と書かれているように、採用時にすべて必須とされているわけではないが。とはいえ、大学などでもこの方向性で資質・能力を高めることが想定されており、理想ばかり高い。
どれだけスゴイ人材、スーパーマン、スーパウーマンを期待しているのだろうか。
しかも、文科省・中教審のペーパーから窺えるのは、個々の教員の資質・能力の向上を図ろうとする個人(個人主義的)モデルである。サッカーでたとえると、個人技ばかり磨こうとしているうえに、ひとりの選手に、フォワードも、ディフェンスもやれ、シュートも守りもあらゆることにうまくなれ、と言っているようなものではないか。
今回の文書のタイトルだけ「教職員集団」と銘打っているだけで、苦手なことを補いあったり、強みを切磋琢磨したり、チームワーキングを高めたりする発想は、論点整理案からは皆無に見える。「組織」あるいは「チーム」という言葉すら一言も出てこないのだから(もっとも言葉を出せばよいという話でもない)。
これまで文科省と各地の教育委員会がやってきたことはどうだったか。またたとえ話をすると、学校ならびに教職員(教員ならびにスタッフ)に求められるものをどんどん増やし、ハードルを上げ続けてきた。だが、足もとで現実に増えているのは「そんな高いハードル跳べません」、「無理っ!」と棄権する若者たち(教員採用試験等を受けようとしない)と中途退職する人たちだ。
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