少子化で、部活動を維持できない学校が大半になる
部活動地域展開を吹奏楽の視座で論じる記事も、3回目となった(1回目、2回目前編、2回目後編)。筆者はこれまで、自身の大学紀要を刊行したり、吹奏楽関連団体合同会議を主催するなど、早い時期から文化庁が発表した「部活動地域展開ガイドライン」の考察や対処への促進活動を展開してきた。

北海道教育大学音楽文化専攻合奏研究室 21世紀現代吹奏楽レパートリープロデューサー
東京藝術大学卒業後、メリーランド大学大学院にて音楽修士号取得。イーストマン音楽院博士課程進学。デンマーク政府奨学生として王立音楽アカデミーに留学。レオナルド・ファルコーニ・ユーフォニアム・コンクール第1位受賞。ヤマハ吹奏楽団常任指揮者、北海道教育大学准教授。前日本管楽芸術学会副会長
(写真は本人提供)
だが、物事はそう容易く進むことはなく、少子化のスピードが速まる社会において、「部活動の変革に対する適切な対応をまだ取れていない関係者が多数いる」という現実がより強調されるばかりのように感じられる。
このガイドライン自体は、法的拘束力のあるものではない。また、主に公立中学校を対象としているため、すべての学校種が強制的に従う必要があるわけではない。
そのため、例えば部活動に特色を持つ高校の活動を制限するものではなく、部活動の単位を維持したまま吹奏楽コンクール中心の活動を続けることを制限するわけでもない。また、吹奏楽部で指導し続けたいと望む顧問教員を強制的に引き離すような効力もない。
しかしながら、第1回・第2回の記事でも繰り返し論じているように、とにかく「少子化」なのである。文化庁がガイドラインを出していなかったとしても、早晩、現状の部活動体制を維持できない学校が大半を占めゆくことが明白ということだ。また、現時点で体制が維持できるところもいずれ「その日が来る」可能性が高いということでもある。

吹奏楽部の行く末が「文化発展のエンジン」になる
ここで、文化庁の『部活動の地域連携・地域移行と地域スポーツ・文化芸術環境の整備について』を見てほしい。

この資料の中で、特定の部員数推移の統計情報が挙げられているのは吹奏楽部のみだ。すなわち、吹奏楽部の将来的な趨勢がほかの部活動の規範とされているということでもある。私たち吹奏楽関係者は、この重みを十分に考える必要がある。
では、変革を余儀なくされている「部活動」において最大の特色とは何か。何より「学校活動の一部であった」ということだろう。だが、以前述べたように、学校教育における指導書である「学習指導要領」はごく最近まで部活動運営に言及することはなかった。
それにもかかわらず、いかにも学校教育の一部として長い間取り扱われてきたのである。本来「課外活動」として勉学・学習とは異なる位置にいた部活動は、絶妙のバランスでティーンエイジャーたちのかけがえのない文化として重要な位置を占めるようになったのである。
勉学・学習はそのスキーム上学校単位で行うことができるが、部活動は、生徒一人ひとりの興味関心、そして嗜好と意欲によって選ばれるものである。多種な部活動文化は、少子化がここまで顕著になるまではそれぞれの多様性を維持できていたが、今となっては廃部になったものも少なくない。
部活動の選択肢が狭まることは、若者たちの挑戦する心をも萎縮させてしまうのではないだろうか。多様な活動を通じて培われるはずの、困難に立ち向かう精神や創造性を育む場を、社会の変化に順応させながら再構築しなくてはならないのではないのだろうか。
さて、部活動は長年学校教育の内側に存在していたおかげで、基本的に生徒一人ひとりに対する平等性が保たれてきた。吹奏楽部でも、楽器をはじめとする活動に関する道具はかなりの部分が公的に担保されていた。
しかし、こうした状況が学校単位では維持できない日が来ることを、部活動の地域展開は示唆しているのである。この先さらに学校自体の統廃合が進んでいくことも明らかだろう。
ここで、先に述べた「吹奏楽部の将来的な趨勢がほかの部活動の規範とされている」ことを思い出すと、大袈裟かもしれないが、吹奏楽部の“創造的な趨勢”が、さまざまな文化発展のエンジンの役割を担っているとも考えられるのではないだろうか。そうであれば大変革を前に、基本的なことすなわち吹奏楽部の本質・意義を明確化することが必要だと私は考える。
吹奏楽コンクール本来の「意義」と、欠落する"芸術性”
文化庁の地域展開ワーキンググループ会議において、経済基盤の確立や運営母体の設置、具体的な団体形態の決定など、地域団体のハード面についてはかなり議論が深められているが、実はその本質・意義を掘り下げるまでには至っていない。部活動の地域展開の予算要求に具体的な進展がなかなか見られないのは、本丸である「吹奏楽部の存在意義」そして「吹奏楽コンクールの意義」が明確化されていないことも関連するのではと感じている。
ここで一度、多様化した吹奏楽の価値観を考察・整理し、子どもたち世代のコンクールの定義の要素を、以下のように明確化してみた。

このように、日本の吹奏楽コンクールは単なる競技会としてだけでなく、教育、文化、社会、技術など多面的な意義を持ってきた。とくに学校教育における部活動として、生徒の全人的な成長に大きく貢献していたことは間違いないといえる。だが、このように要素を明確化してみるに、音楽演奏としての最も重要な要素が抜け落ちていることがわかる。
それはコンクールの演奏における「芸術性」だ。音楽演奏においてどんな要素をしてそれが「芸術」たらしめるのかのエビデンスを明らかにするのは難しい。だが、吹奏楽コンクールにおける子どもたちのあの熱い感動的な演奏が残念ながら「芸術的ではない」と考えせしめる要素は、実は多く存在している。以下を見てほしい。
ここまで、吹奏楽コンクールの演奏が「芸術的ではない」理由としてかなり重い要素を並べたが、すべてを解決することは難しい。なかには、あくまでアマチュアのコンクールだから「芸術的でなくても良い」「そこまで考える必要がない」と言う人もいるらしい。
しかし、音楽は子どもたちの文化的成長に不可欠な栄養素であり、コンクールの演奏に芸術性が不要だという主張は暴論である。芸術と、それに向かう努力は、人間文化を発展させる原動力だ。音楽や美術に限らず、人間がなすことすべての究極の姿が「芸術」だと考えるならば、芸術との関わりは教育そのものであり、この教育を受けた子どもたちが創造するものがまた新たな人間文化となるのである。
さまざまな芸術的矛盾の中で創意工夫がなされたことによって、吹奏楽を世界最高水準に発展させるにいたった吹奏楽コンクールは今、「少子化」という社会問題を前にして、多様に歪んでしまった吹奏楽の存在価値と意義の再構築を迫られている。
吹奏楽コンクールが芸術的で感動的であるという要素を1つ探すとすれば、それは子どもたちのひたむきさ・純粋さによって、日常では味わえない尊い瞬間が彼ら彼女らの演奏によって作られている、という点ではないだろうか。だが、そこを取り巻く現在の環境は、芸術創造を阻害する要素があまりに多すぎる。
上杉鷹山公に学ぶ米沢藩の衰退と鷹山の改革
さて、筆者の母校・山形県立米沢興譲館高等学校は、米沢藩第9代藩主の上杉治憲(のちの鷹山公)によって1776年に創設された学問所「興譲館」をルーツとしている。鷹山公は名君として知られるが、「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」の名言でも世界的に有名だ。
鷹山公の改革については多くの記述があるが、「なせば成る」の名言に至った心理に関する考察は少ない。ここで米沢出身の私が、この心理を推察することで吹奏楽部の地域展開のヒントを見出してみようと思う。
上杉藩は、豊臣時代で会津米沢120万石だったのが、関ヶ原の敗戦で米沢30万石、さらに3代藩主の急逝で15万石まで削減された。莫大な借財と飢饉で破綻状態だった上杉藩に入った鷹山がまず目にした「板谷宿」は餓死者が溢れる荒廃ぶりで、米沢の街も同様であった。この惨状が、鷹山に改革への強い決意を促したことは想像に難くない。
鷹山公は、領民の庭に食料生垣兼用のウコギを植えさせ、池に鯉を飼わせ、食せる草であれば雑草ですら食料とさせた。また、織物産業を奨励して経済復興を進めた。そして隠居時に「なせば成る」の名言を残したのである。
鷹山は、藩の荒廃を目の当たりにし、「なぜここまで誰も手を打たなかったのか」「領民が飢えるまで誰も改革を始めなかったのか」「かつての栄光にすがり、『なんとかなる』と夢見ていたのか」と憤ったに違いない。「なせば成る」は、無策の家臣たちへの叱咤であると同時に、悲惨な現実を見た日の自身への決意の言葉でもあったのだろう。
これは現代の吹奏楽界にも通じる。私を含め、吹奏楽の将来を憂い、存亡の危機を真剣に考えているすべての人が“鷹山公”になりうる。手をこまねいていては、吹奏楽は避けがたい衰退に向かうだろう。このままでは「貧すれば鈍す」だ。従来のコンクール体制に拘泥している場合ではない。
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」。この言葉を、吹奏楽に関わるすべての大人たちへのものと捉え、意思ある者が手を取り合って新たなムーブメントを起こすべきは、今をおいてほかに無いだろう。
(注記のない写真:ふぁんしー / PIXTA)