吹奏楽コンクールの演奏が"芸術的でない"理由、「少子化」を前に改めるべき慣習とは 課題曲の質、自由曲の編曲、時間制限などに疑問

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◯課題曲の種類
一時期、「技術的難易度が非常に高い現代音楽語法の作品」「ポップス系作品」「技術的要求の高くない作品」がコンクールの選択課題曲として同列に位置していることがあった。音楽の方向性も技術的格差も天と地ほど開いている作品を、同じ評価軸で審査する妥当性がどこにあるのか、理解するのはなかなか難しい。競技として一般的に考えれば、演奏技術の基準や、音楽ジャンルを統一して審査することが第一条件ではないだろうか。
◯時間制限の影響
コンクールにおける時間制限の存在が、自由曲へのさまざまな試行錯誤を助長し、演奏技術や楽曲の多様性を拡大させたことは間違いない。しかしその反面、コンクールで高得点につながるもしくは減点されにくい演奏をするために、普段の練習目的の大部分が、短絡的に音程を合わせて響きの濁りをとったり、ズレなくリズムを統一することだけに占められるようになった。コンクールにおいて、演奏の表面的な完成度を追い求めることが全てになってしまったように感じられる。結果として、演奏の「質」の方向性が標準化され、個性的な演奏が生まれにくくなってしまったことは極めて憂慮すべきことだと考えられる。
何より、時間制限のために、自由曲として選んだ演奏楽曲を短くカットして編集してしまうことが、元の楽曲の良し悪しは別にしても、音楽的な質を歪めてしまっている。このカットは長年行われており「当たり前」になっているため、この慣習の廃止こそ、コンクール改革のまさに一丁目一番地だと私は考えている。
◯審査方法
これもすでに常態化しているが、課題曲をよく知らないまま審査する審査員が多いことは妥当なのだろうか。これは、日進月歩で新しい作品が生まれている自由曲に対しても同様である。知らない楽曲にもかかわらず、第一印象で審査することははたして妥当なのか。
音楽演奏の評価について、さまざまな評価要素を定量化することは容易ではないが、だとしても主観だけの評価で良いのか。要素の定量化はすなわち、子どもたちの教育基準の明確化でもある。例えばフィギュアスケートにおいて、採点は3名の技術的審判員によってテクニカルな要素を判定する。加えて、9人の演技審判が出来栄えや演技の芸術性を考慮する演技構成点を判定する。論理的評価と主観評価のダブルスタンダードを共存させているとても良い例だと考える。このように、評価要素及び採点方法を細分化する努力は、進化した競技を目指すために最も必要な仕事のはずだ。
◯指導者の質に関する考察
指導者の質については、自分自身への問いでもあり反省でもある。はたして私たち指導者は、技術的に平易な作品であれ、複雑な対位法や転調を駆使した高度な作品であれ、その本質を正確に理解し適切に子どもたちに伝えられているだろうか。楽譜に書かれた理論的な要素と、そこから生まれる音楽的な感性の両面を、わかりやすく説明する力を持ち合わせていると言えるだろうか。
何より、進化し続ける吹奏楽作品の本質を見抜く「審美眼」を養えているだろうか。音楽教員であってもなくとも、指導者としてやるべきことは同じだ。自らの感性や思い込みだけで子どもたちに接していないかどうかは一度考えなければならない。

ここまで、吹奏楽コンクールの演奏が「芸術的ではない」理由としてかなり重い要素を並べたが、すべてを解決することは難しい。なかには、あくまでアマチュアのコンクールだから「芸術的でなくても良い」「そこまで考える必要がない」と言う人もいるらしい。

しかし、音楽は子どもたちの文化的成長に不可欠な栄養素であり、コンクールの演奏に芸術性が不要だという主張は暴論である。芸術と、それに向かう努力は、人間文化を発展させる原動力だ。音楽や美術に限らず、人間がなすことすべての究極の姿が「芸術」だと考えるならば、芸術との関わりは教育そのものであり、この教育を受けた子どもたちが創造するものがまた新たな人間文化となるのである。

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