吹奏楽コンクールの演奏が"芸術的でない"理由、「少子化」を前に改めるべき慣習とは 課題曲の質、自由曲の編曲、時間制限などに疑問
さまざまな芸術的矛盾の中で創意工夫がなされたことによって、吹奏楽を世界最高水準に発展させるにいたった吹奏楽コンクールは今、「少子化」という社会問題を前にして、多様に歪んでしまった吹奏楽の存在価値と意義の再構築を迫られている。
吹奏楽コンクールが芸術的で感動的であるという要素を1つ探すとすれば、それは子どもたちのひたむきさ・純粋さによって、日常では味わえない尊い瞬間が彼ら彼女らの演奏によって作られている、という点ではないだろうか。だが、そこを取り巻く現在の環境は、芸術創造を阻害する要素があまりに多すぎる。
上杉鷹山公に学ぶ米沢藩の衰退と鷹山の改革
さて、筆者の母校・山形県立米沢興譲館高等学校は、米沢藩第9代藩主の上杉治憲(のちの鷹山公)によって1776年に創設された学問所「興譲館」をルーツとしている。鷹山公は名君として知られるが、「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」の名言でも世界的に有名だ。
鷹山公の改革については多くの記述があるが、「なせば成る」の名言に至った心理に関する考察は少ない。ここで米沢出身の私が、この心理を推察することで吹奏楽部の地域展開のヒントを見出してみようと思う。
上杉藩は、豊臣時代で会津米沢120万石だったのが、関ヶ原の敗戦で米沢30万石、さらに3代藩主の急逝で15万石まで削減された。莫大な借財と飢饉で破綻状態だった上杉藩に入った鷹山がまず目にした「板谷宿」は餓死者が溢れる荒廃ぶりで、米沢の街も同様であった。この惨状が、鷹山に改革への強い決意を促したことは想像に難くない。
鷹山公は、領民の庭に食料生垣兼用のウコギを植えさせ、池に鯉を飼わせ、食せる草であれば雑草ですら食料とさせた。また、織物産業を奨励して経済復興を進めた。そして隠居時に「なせば成る」の名言を残したのである。
鷹山は、藩の荒廃を目の当たりにし、「なぜここまで誰も手を打たなかったのか」「領民が飢えるまで誰も改革を始めなかったのか」「かつての栄光にすがり、『なんとかなる』と夢見ていたのか」と憤ったに違いない。「なせば成る」は、無策の家臣たちへの叱咤であると同時に、悲惨な現実を見た日の自身への決意の言葉でもあったのだろう。
これは現代の吹奏楽界にも通じる。私を含め、吹奏楽の将来を憂い、存亡の危機を真剣に考えているすべての人が“鷹山公”になりうる。手をこまねいていては、吹奏楽は避けがたい衰退に向かうだろう。このままでは「貧すれば鈍す」だ。従来のコンクール体制に拘泥している場合ではない。
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」。この言葉を、吹奏楽に関わるすべての大人たちへのものと捉え、意思ある者が手を取り合って新たなムーブメントを起こすべきは、今をおいてほかに無いだろう。
(注記のない写真:ふぁんしー / PIXTA)
執筆:北海道教育大学音楽文化専攻合奏研究室21世紀現代吹奏楽プロデューサー渡郶謙一
東洋経済education × ICT編集部
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