「脳」は複雑性と神秘と能力にあふれている ある人工知能研究者の脳損傷体験記

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もう一人は、ニューロオプトメトリック・リハビリテーションを重視する検眼医。といっても、聞いたことのない言葉で何のことがわからないが、『視覚システムと脳の機能の相互作用、および人間を人間たらしめている高次の処理と視空間機能の統合』に重きを置いた治療をおこなう医師らしい。とんでもなく専門性の高い医師だ。エリオットの症状が、視覚と身体感覚のずれなど、視覚に大きく関係していることから、この治療も必要であった。

短期間のトレーニング、驚きの効果は…?

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どちらも、それほど複雑な治療法ではない。前者は、ランダムに打たれたように見えるドットから特定の図形パターンを見つけるといったトレーニング、後者は、特殊なプリズムを使った眼鏡をかけて、ものの「見え方」をゆがめるといった方法である。とりわけ後者の効果はてきめんであった。極めて短期間に驚くべき変化があった。それは、と、びっくりの内容を書きたいところだが、内緒。この本でいちばん驚くべきところは、その効果のところなので、読んでのお楽しみということに。

目に見えるような大きな損傷でなくとも、多彩な症状が出る。そして、その症状は、適切なトレーニングで治療できる。それだけではない。エリオットは、いろいろな症状に悩んでいた時でさえ、大学教授の仕事をこなし、シングルファーザーとして幼子を育てていた。いやはや、脳というのはどれだけよくできているのだ。

ただし、ひとつだけ付記すべきことがある。エリオットの例は、非常に特殊な例である可能性があることだ。IQが非常に高く、中学生時代には大学で数学の講義を聴いていたような賢さであり、同時に、視覚的な認識能が非常に高い、さらには音楽の才能にも優れている、など、ちょっとしたスーパーマンなのである。だからこそ、このような複雑な症状が生じた可能性があるし、また、治療が成功した可能性もあるのだ。

だからといって、この本の面白さがそこなわれるわけではない。一人の人間の脳が、これだけの複雑性と神秘と計り知れない能力を抱え込んでいるのは紛れもない事実なのだ。『脳はすごい』以外にそれを表す言葉があるだろうか。

仲野 徹 大阪大学大学院・生命機能研究科教授

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なかの とおる / Toru Nakano

1957年、大阪市旭区千林生まれ。大阪大学医学部卒業後、内科医から研究の道へ。京都大学医学部講師などを経て、大阪大学大学院・生命機能研究科および医学系研究科教授。HONZレビュアー。専門は「いろんな細胞がどうやってできてくるのだろうか」学。著書に『こわいもの知らずの病理学講義』(晶文社、2017年)、『からだと病気のしくみ講義』(NHK出版、2019年)、『みんなに話したくなる感染症のはなし』(河出書房新社、2020年)などがある。

 

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