あえて遠い時代と見る感性が大事--『昭和天皇と戦争の世紀』を書いた加藤陽子氏(東京大学大学院教授、歴史学者)に聞く
戦後はほんの少ししか触れていない。特に退位論は大急ぎで書いている。何よりこの時期の1次史料がまだ少ない。たとえば、「戦争責任というような文学的な表現は自分にはわからない」と発言した真意。そういったものも1次史料が整わないと執筆は難しい。
一方で、昭和戦前期はなぜ書けたのか。それは戦争に負け、一つの時代の設定が終わって史料が出てきたから。焼失したとされていたものが現存し、また米軍に確保されたりもしている。今回、戦後の記述を手控えたのは、ある時代が終わった後にしか出てこない史料の発見・公表を待ちたいと思ったからだ。
──この本で「成り代わって見ること」の大事さも教わりました。
戦前期をどう見るか。敗戦という大きな時代の転換で軍が出さざるをえなくなった史料に依拠して検証すると、軍が天皇をあがめながらも見切る、あるいは軍が天皇を利用し尽くす姿が浮かんでくる。それも早い時期から。軍の目を通して歴史を見ると、新たな理解の道が開ける。
35年に天皇機関説を帝国議会で議論している。陸軍少将の江藤源九郎・衆議院議員が、開戦の詔書を天皇が出したときに、国民が戦などできないと言ってこの詔書を論難してもよろしいのか、と問い詰める。太平洋戦争開戦時の41年に似た議論をする6年も前のことだ。人々が大して関心がない時期に、軍はすでに決定的な一打で方向を決めていたのだ。
──終戦でも伏線がある?
36年の2・26事件のときに陸軍省部長の山下奉文が陳述した記録によると、反乱軍を率い銃殺された村中孝次が、天皇が敗戦と言ったときに軍はそれに従っていいのか、軍が戦争をやめると判断したときにやめるのだ、という由の考えをしている。天皇を利用し尽くそうとした側の敗戦のイメージを、実に9年近く先取りしている。実際、45年8月の終戦時には玉音放送阻止の動きはあった。