「花山天皇を出家させる」藤原道兼の痛烈な裏切り 懐仁親王の即位を早めるために兼家親子で画策
兼家は娘(次女)の詮子を円融天皇の女御とし、詮子は980年に懐仁親王を生むことになります。984年、円融天皇は花山天皇に譲位したことから、懐仁親王は皇太子に立てられました。
ところが、その2年後(986年)の6月には、花山天皇が早くも退位・出家してしまうのでした。
その裏には、兼家とその三男・藤原道兼の画策があったと伝えられますが、寵愛していた女御・藤原忯子の急死を受けて、花山天皇自身も出家を考えられていたようです。
『大鏡』は、ご退位の夜のことを次のように記します。
花山天皇は藤壺(平安宮の内裏五舎の1つ)の上の御局の小戸からお出ましになりました。夜が明けかけてもいまだ空に残っている「有明の月」の光が容赦なく、天皇を照らし出しました。
道兼がなんとか出家させようと急かす
花山天皇は「月の光で姿が目立ってしまっている。どうしたらよいか」と仰せになったようですが、藤原道兼は次のように急き立てます。
「それでも、出家をお取りやめになられる理由はございません。なぜなら、神璽・宝剣も、すでに皇太子のもとにお渡りになってしまったからです」と。
道兼は、花山天皇が心変わりして宮中に戻ってしまっては大変だと、前もって、皇位の象徴とも言うべき、神璽・宝剣を皇太子方に勝手に渡していたのでした。
輝く月にも、雲がかかり、辺りは少し暗くなってきました。花山天皇は「出家は成就するのだ」と仰せになり、歩みを進められます。
ところが、そのとき、花山天皇は、普段から肌身離さず持っていた忯子が書いた手紙をうっかり忘れたことを思い出し「しばし待て」と取りに帰ろうとされるのです。
それを見た道兼は、すかさず「どうして、そのように未練がましく思われるのですか」と告げます。そのうえで「この機会を逃せば、ご出家にも支障が出て参りましょう」と、泣きながらその言葉を投げかけるのです(とは言え、道兼は「嘘泣き」だったようですが)。
道兼は花山天皇と土御門大路を東へと向かい、宮中から連れ出すことに成功します。そして、そこには、陰陽師・安倍晴明の邸がありました。邸を通ったときに、安倍晴明の声が聞こえてきたそうです。
それは「天皇がご退位なさると思われる天空の異変があったが、すでにご退位は済んでしまったと思われる。宮中に参上して、奏上しよう。車の支度を早くしてくれ」というものでした。安倍晴明は手を何度も叩きながら、繰り返しこの言葉を述べていました。
安倍晴明の言葉を聞かれた花山天皇は、覚悟のうえの出家とは言え「あはれ」(深いしみじみとした感動)に思われたに違いないと『大鏡』は記します。
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