
[著者プロフィル]吉 倫亨(キル・ユンヒョン)/ハンギョレ新聞 国際部長。1977年ソウル生まれ。韓国・西江大学で政治外交学専攻。2001年ハンギョレ新聞社入社、13年から3年間東京特派員。日米同盟など安保分野、日本軍慰安婦問題など精力的に執筆。著書に『安昌男 三十年の花火のような人生』『私は朝鮮人の神風だ』(いずれも未邦訳)など。(撮影:尹 雲植)
1945年8月15日。日本が太平洋戦争に敗れ悲嘆に暮れる中、植民地・朝鮮は解放の時を迎えた。待ち焦がれた独立に向けて朝鮮人は立ち上がったが、米ソという戦争の勝者の影が忍び寄り、結果、南北は分断される。同年9月9日に米軍が京城(ソウル)に進駐するまでの26日間、朝鮮では何が起きていたのか。
知らないうちに解放
──日本人が見落としがちな時期の朝鮮を描いています。
日本が敗戦しそうだということは、当時短波ラジオを聞いたごく一部の人だけが知っていて、一般の市民はまったく知りませんでした。「知らないうちに解放されていた」というのが実情でした。
──独立に向けて主導した国内のプレーヤーに加え米国とソ連、そして日本の朝鮮総督府関係者の動きが錯綜します。
朝鮮では左派の独立運動家の呂運亨(ヨウニョン)と右派の宋鎮禹(ソンジヌ)が台頭します。植民地にされていた時期、反日・独立運動を主導してきたのは主に左派でした。右派も運動を起こすも、植民地時代が長引く間に日本と妥協し、時には「親日」とみられる勢力でした。ただ、右派民族主義者の宋鎮禹は、日本といっさい妥協しなかった人物です。
朝鮮総督府も阿部信行総督をはじめ当時の幹部らが、敗戦前から呂運亨や宋鎮禹に接触を図ります。敗戦後の治安維持など邦人保護のためです。これに米ソが加わります。
──朝鮮の解放は、自分たちの力で勝ち取ったものではなく、連合国側の勝利の副産物だった、と指摘されていますね。
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