大手による市場寡占の構図が生まれた経緯をひもとく。
「結局のところ、自分たちはあのときから大きく変わっていないのではないか。むしろ、変わろうとしなかった、ということなのかもしれない」
損害保険大手4社によるカルテル問題が顕在化した昨年6月、ある損保の役員は自責の念に駆られるようにそう話した。
同役員が言う「あのとき」とは、保険の自由化が進んだ1996年以降の数年間のこと。保険業法の全面改正(96年)、日米保険協議の終結(同年)、金融システム改革法の施行(98年)などがあった。その結果、損保業界も、しのぎを削る競争を迫られることになった。
それまでの損保は、政府の「護送船団行政」による庇護(ひご)の下、火災保険や自動車保険といった商品を、同一内容・同一価格で販売していた。
価格差が存在しない中での競争
当時の金融行政の最優先事項は、価格競争によって体力のない保険会社が経営破綻し、契約者が被害を受けるような事態を回避することだった。
価格差が存在しない中で損保が競争するには、保険を契約してくれる企業の物品やサービスを購入する「営業協力」で、どれだけ歓心を買えるかが重要だった。
また、差のない商品を販売する損保の売り上げ(収入保険料)は、顧客との接点となる保険代理店の数で決まる。それゆえ大手損保は、正社員ではなく「研修生」として人材を大量に受け入れ、研修生に代理店を立ち上げさせることに躍起になった。90年代後半、損保の代理店の数は現在の4倍近い約60万店にも上っている。
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