「グローバル・ローカル・国民国家」という難問 「自由と平等の衝突」の解決に必要な「惻隠の心」
グローバリズムを経て日本の保守がいなくなり、誰もが自分の利益を追求することを「自由」と呼んだ現在、日本社会における格差の拡大は進行しています。
本来、日本人にとっての国家は格差が広がらないために、平等を志向するための存在のはずです。権力者が自己利益を追求するようになり、国民の安全を守らなくなった現代において、どのようにすれば「平等」を希求する社会をつくることができるのか。
「友愛」のための「手触り」
ここで著者は自由、平等に続く第三項としての「友愛」の重要性を説きます。それは孟子が言うところの「惻隠の心」であり、さらに中国共産党の軍紀にも記されてあったといいます。1937年時点の赤軍の実相を伝える、エドガー・スノウ『中国の赤い星』から引用しています。
(2)自分の寝た藁莚は巻いてかえすこと
(3)人民に対して礼儀を厚くし、丁寧にし、できるだけ彼らを助けること
(4)借りたものはすべて返却すること
(5)こわしたものはすべて弁償する
(6)農民とのすべての取引にあたって誠実であること
もともとここまでの六項目でしたが、林彪がさらに二つを付け加えました。
(7)買ったものにはすべて代金を払うこと
(8)衛生を重んじ、特に便所を建てる場合には人家から十分な距離を離すこと
(中略)
みなさんに感じて欲しいのは、この革命軍規律の「手触りのやさしさ」です。「礼儀」とか「弁償」とか「誠実」とかいうのは頭の中で考えても出てくる言葉ですが、赤軍兵士に一夜の宿を貸したせいで、農民たちが感じる「寒さ」や「臭気」といった生理的不快まで気づかうのは、農民たちのごく身近にいて起居を共にした人間からしか出てこない言葉です。(213-214頁)
「農民たちのごく身近にいて起居を共にした人間からしか出てこない言葉」こそが、「手触り」を感じる言葉なのだと思います。そして自由と平等という拮抗する理念を具体化し、現実化するためには「手触りのある友愛」が不可欠なのです。
国民国家の再生は「戦前回帰」をすればいいということではありません。脳内だけで考えているようなバーチャルな「強い日本」を取り戻すのではなく、日本社会に生きる困難を抱える人びとが温かい食事が食べられて、安心しながら眠りにつけて、自分の痛みを共感してくれる人たちとの対話を通じて、人びとを守ってくれる日本を実現するのだと思っています。
手触りを感じるために、普遍的な理念を背に現場に赴くこと。ここからしか実現しないのだろうと思います。
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