SONY成功の裏にあったアメリカでのイメージ戦略 日本からの輸入品ではないと思わせる工夫とは

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ソニー・アメリカ時代の経験を踏まえて、私が思ういい人材ですが、部門によって違います。セールスをする人、事務をする人、製造をする人、それによってみんなタイプが違います。

ソニー・アメリカで主に製造を見ていた私も、だんだんとセールスをするようになったのですが、セールスの人とは、たとえ日本人同士であってもメンタリティーの違いを感じました。私は技術者なので、セールスの日本人よりもアメリカ人の技術者と話したほうが話が通じると感じていました。言葉が違うだけで、やはり技術者は、世界中どこに行っても技術者のメンタリティーを持っています。セールスはどこに行っても、セールスのメンタリティーを持っています。

マネジメントに興味を持つ、一大転機

一番尊敬されるのは、クリエイティブな人です。何か同じことをするにしても、「ハッ」と思うようなことを言う人は、どこの国の人であろうと、「オッ」と思われます。自分がどういう技術者か自己分析すると、私はものすごく不器用です。むしろアイデアや人の面白がるようなことを考えることが得意です。人がびっくりするようなものを作るという才能はまったくないと思っています。

そういうわけで、時々自分は技術者なのかなと考えることがあります。技術者ではなく、むしろ、マネジメントのほうが興味ありますから。

実は、これには一大転機がありました。

1954年からソニーの仙台工場にいたときには、私は材料を扱って磁気テープを作ったり、いろんな部品を作ったり、そういうことを勉強してきました。本当に一番かどうかはわかりませんが、「この分野では自分が一番だ」と考えていました。また、そういう自負と自信を持って、一生懸命みんなを指導していました。

1968年に突然、井深さんから厚木の半導体工場へ行けと言われて、その工場の副長、ナンバー3として赴任することになりました。

仙台での材料とは違い、私は半導体をまったく勉強していませんでしたから、何とか熟知しようと努力しました。しかし、みんな優秀な半導体技術者ばかり。しかも、ソニーの基幹部門で、トランジスタを全部作った人たちなので、どう考えても私は勝てないのです。自分は工場のナンバー3の立場なのに、どの技術者とディスカッションしても、「勝てない」と思ってものすごいショックを感じました。だから、指導なんかできっこない。

仙台では、何を聞かれても答えられて、「俺が技術部門を引っ張っているんだ」という自負でやっていました。しかし、厚木では、「本当にどうしたらいいのか?」と深刻に悩んだのです。「こうやったほうがいい」とアドバイスしたいが言えない。「俺は何で上の立場にいるんだ、俺は何をしたらいいんだ」と悩みました。厚木工場に行ったときですから、私が40歳手前くらいのときだったと思います。

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