ついに東急電鉄も「ホームドア」本格設置へ 消える「多扉車」、ラッシュ緩和の役目終える

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しかし2010年代ともなると、前述のホームドアに対応できないなどの理由で、早くも多扉車は淘汰される傾向となった。

すでに山手線、京浜東北線などからは撤退済みだ。まだ多扉車が多く使われている東京メトロ日比谷線・東武スカイツリーラインでも、2016年度からの4扉の新型車両への取り換えが発表されている。首都圏では、過去のものとなる日は遠くないと思われる。

多扉車の導入目的は「詰めこみ」ではなかった

表は、多扉車を導入した鉄道会社と、その期日などをまとめたものだ(表中、東武スカイツリーラインの備考欄は東京メトロ日比谷線と同じであるので注意されたい)。やはり1990年、山手線に登場した際のインパクトは大きかった。ただ当初は、「朝のラッシュ時には座席をすべて収納して、立席のみとする」という、JR東日本独自の目新しい機能が採用された(のちに東急も追随)ことと、側面が扉だらけという見た目から、マスコミなどから「詰め込みのための、椅子なし電車」という、誤解から来るレッテル張りがなされたことは、誠に遺憾であった。

実は、多扉車の導入目的は、決して詰め込みのためではない。

例えば、最初に山手線を走った205系の6扉車「サハ204」の定員は、座席を収納した状態だと157人。同じ系列に属する4扉車の「サハ205」の定員は座席・立席合わせて144人で、その差は13人。劇的に定員が増えるわけでもないのだ。
 そもそも定員を増やすことが目的ならば、全車を6扉にすればもっと効果は高いはず。なぜ11両編成中、たった1両だけの多扉車なのだろうか。

多扉車が目的とするところを、元祖である京阪電鉄5000系電車の登場理由まで遡って、説いてみよう。京阪5000系は、今から45年も前の1970年にデビューした。今でも現役である。

その頃の京阪は、毎年、右肩上がりで増え続ける利用者への対応に追われていた。都心部から郊外へ人口が流出する「ドーナツ化現象」により、通勤客の乗車距離も長くなる一方だった。

京橋~守口市間が複々線になっていた(当時)とはいえ、複々線区間に入る守口市の手前が輸送上苦しかった。停まる駅ごとに扉へ殺到する乗車客により停車時間が延び、遅れが発生してしまい、普通が後続の急行などの行く手を阻む形となって、ダイヤの乱れが頻発していたのだ。

次ページ京阪線に続いた山手線だが・・
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