
「敗北死」の欺瞞を見抜けるか 若い世代の“個人主義”に懸念
──成田闘争に関与しましたが、連赤は意識されましたか。
あさま山荘銃撃戦の後に、いわゆる総括リンチが明らかになった1972年時は中学生で、77年にセクトの1つ、戦旗派に入り成田闘争に関わった。連赤も含め内ゲバを繰り返す党派や企業爆破に走る人々を見て、もっとまっとうに国家権力と戦う、機動隊に正面からぶつかる運動をつくり出せないかと思ったのです。周囲の人々も、連赤を反面教師にしていました。
──それでも“プチ連赤”化。
戦旗派は火炎瓶の時限発射装置を自動車のトランクに仕掛け、成田空港などに打ち込んだ。自動車は市民から盗んだもので、毛沢東の「民衆のものは針一本、糸一筋盗るな」という教えに反しているが、革命的徴発と説明されました。
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