財政問題が保存、公開阻むが戦後、本土で生きた者の責務
──首里城の地下には沖縄戦を指揮した司令部の跡が残っています。
1945年3月に始まった沖縄戦を指揮した第32軍(沖縄守備隊)の司令部壕(ごう)です。地下坑道は全長が約1050メートルあり、沖縄戦のとき、壕内には1000人もの人が出入りしていたとされています。
──壕の全容を含め、実はわかっていないことが多いようですね。
沖縄戦についてはよく「軍人よりも住民の犠牲者のほうが多かった」「本土決戦のための時間稼ぎの戦争で、沖縄を守る戦いではなかった」という説明がなされ、その悲惨さが強調されます。ただ、具体的にどんな戦争だったのか? なぜ軍人より住民の犠牲者が多くなったのか? いつ終結したのか? という問いに根拠を持って答えられる人は多くないと思います。
──根拠不明なものの1つが、第32軍司令官だった牛島満中将が自決した6月23日とされている「組織的戦闘の終了日」。
多くの研究者やマスコミがそう解説してきました。沖縄県では6月23日が「慰霊の日」として定着しています。
本書では以下の2点について、知りえた範囲で記述しました。1つは、私の祖父である牛島中将の自決日が6月23日ではなく22日だったこと。もう1つは、自決後も「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」という6月19日の命令により沖縄戦は終結せず、8月15日を過ぎても戦闘が続いたことです。
この記事は会員限定です。登録すると続きをお読み頂けます。
東洋経済ID 会員特典
東洋経済IDにご登録いただくと、無料会員限定記事を閲覧できるほか、記事のブックマークや著者フォロー機能、キャンペーン応募などの会員限定機能や特典をご利用いただけます。
東洋経済IDについての詳細はこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら