祖父による南部撤退命令の謎 司令部壕公開で考える契機に 元小学校教員、平和ガイド 牛島貞満氏に聞く

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うしじま・さだみつ 1953年生まれ。2017年まで小学校教員。94年に、沖縄戦を指揮した第32軍(沖縄守備隊)司令官・牛島満中将の調査を始め、04年から「牛島満と沖縄戦」について授業や講演を続ける。沖縄観光コンベンションビューローの沖縄修学旅行アドバイザーを務める。(撮影:梅谷秀司)
首里城地下 第32軍司令部壕
首里城地下 第32軍司令部壕(牛島貞満 著/高文研/1650円/160ページ)書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします。
第2次世界大戦において最後の地上戦となった沖縄戦。日本軍、米軍、住民の混在する異常な戦場が生まれ、住民の4人に1人が命を落とした。その原因となったのが、沖縄戦を指揮した司令官の「ある命令」だった。司令官の孫が、祖父の下した命令から読み取ったものとは。

財政問題が保存、公開阻むが戦後、本土で生きた者の責務

──首里城の地下には沖縄戦を指揮した司令部の跡が残っています。

1945年3月に始まった沖縄戦を指揮した第32軍(沖縄守備隊)の司令部壕(ごう)です。地下坑道は全長が約1050メートルあり、沖縄戦のとき、壕内には1000人もの人が出入りしていたとされています。

──壕の全容を含め、実はわかっていないことが多いようですね。

沖縄戦についてはよく「軍人よりも住民の犠牲者のほうが多かった」「本土決戦のための時間稼ぎの戦争で、沖縄を守る戦いではなかった」という説明がなされ、その悲惨さが強調されます。ただ、具体的にどんな戦争だったのか? なぜ軍人より住民の犠牲者が多くなったのか? いつ終結したのか? という問いに根拠を持って答えられる人は多くないと思います。

──根拠不明なものの1つが、第32軍司令官だった牛島満中将が自決した6月23日とされている「組織的戦闘の終了日」。

多くの研究者やマスコミがそう解説してきました。沖縄県では6月23日が「慰霊の日」として定着しています。

本書では以下の2点について、知りえた範囲で記述しました。1つは、私の祖父である牛島中将の自決日が6月23日ではなく22日だったこと。もう1つは、自決後も「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」という6月19日の命令により沖縄戦は終結せず、8月15日を過ぎても戦闘が続いたことです。

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