泥沼化した日中戦争を打開するための作戦はなぜ中止されたか。
1941(昭和16)年12月8日未明(日本時間)、日本海軍の飛行部隊がハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。並行して陸軍はマレー半島に強行上陸し、シンガポールに向けて進撃を開始。ここに、およそ3年8カ月に及ぶ太平洋戦争の火ぶたが切られる。
それから2日後の12月10日、陸海軍と政府が戦争指導について協議する大本営政府連絡会議(以下、連絡会議)は、今回の米英戦争を「支那事変」(以下、日中戦争)と合わせて「大東亜戦争」(以下、アジア太平洋戦争)と呼称することを決定した。
37年7月7日に勃発した日中戦争は、このときすでに5年目に突入していた。これに太平洋戦争も始まり、泥沼にあった中国戦線は、「後期日中戦争」という新たな局面を迎えていたのである。はたして日本は、日中戦争をどのように解決しようと考えていたのか。
太平洋戦争開戦前の41年11月15日、連絡会議は「対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」を決定した。同案によると、今後中国に対しては、アジア太平洋戦争の成果を利用しながら、米英が重慶の国民政府(重慶政府)に軍需品を支援する輸送線、いわゆる援蒋ルートを断ち、彼らの抗戦意欲をくじいて、戦争継続を諦めさせようとしたのだ。「援蒋ルート」の「蒋」とは、当時の重慶政府の指導者・蒋介石のことである。
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