「総合」された歴史で「ふさわしくない」史実をどう見るべきか。
主観的要素というものは、すべての歴史的把握のうちに必然的に存在して、これを根絶することはできない。個々の事変は、歴史的考察によって初めて、同時代に起こった事変の無際限なる集団のうちから拾い上げられて、一個の歴史上の出来事となる──。今から約100年前、ドイツの歴史学者であるエドワルト・マイヤーが記した一文だ。
過去には無限の出来事があり、そのすべてをそのまま取り上げ再現することはできない。言い換えるなら、歴史とは決して過去の事象そのものではない。それは、無限に存在する過去の出来事から、ある人々が彼ら自身の主観に即して特定の事物だけを取り上げ作り出した、1つの「物語」にしかすぎないのである。
そのことは世の中に唯一絶対的に「正しい歴史」など存在しないことを意味している。過去の事象を真摯かつ実証的に探究すればやがて「正しい歴史」に到着する、と考えるのはあまりにも素朴だ。
学校で教えられる「歴史」もその例外ではない。教科としての日本史も世界史も、過去の事象のすべてを教えるものではなく、特定の基準で選ばれた限られた事象に触れるにすぎない。
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