
「東洋経済新報」1950年1月14日号
後編では明治維新後の実業家としての渋沢栄一像を語っている。驚くのは、誰とでも会ったという点。朝自宅に行けば誰でも会い、どんな要件でも別け隔てなく熱心に聞いたという。また、子供たちには仕事を選ぶ上で大切な4つのことを説いていたという。「道徳上正しいか。時世に適合しているか。仕事をする連中が、人の和を得ているか。おのがぶんにふさわしい仕事か」。貴重な証言である。
調和的な人格
本社 わたくしたち、渋沢翁といえば、柔和な面影を思いだすのですが、ずいぶん気骨のある、信念の強い方だったのですね。
渋沢 けれども、今の論語算盤で仕事をやり出してからは、漸次に円満で調和的な、人のもめ事を宥和させるのがうまい人に変わって行ったらしいです。ちょうどその転機が、明治6年に実業界に働き出したときらしいです。
こんな話もあります。三菱汽船会社と共同運輸会社が無茶な運賃で競争をしたとき、共同運輸に関係のあった父が頼まれ、要路の大官伊藤さんのところへ何か配慮を乞いに行った。
そのとき三菱汽船のやり方の悪い点を吹き込んだ。そうすると伊藤さんが、自分の良い点をいうのはまずよいとして、それを証拠立てるためにほかのアラを述べ立てるとは何事だ、あなたは士君子だと自らも任じ、人にも許されているじゃないか、そういう人がそういう真似をするのは慎まなければいけない、といわれた。
その時の父親の述懐に、実に穴でもあったら入りたかった、ほとんど顔を上げることができなかった、といっております。その年齢を見ると45ぐらいのときです。だから相当狸親父になっていてしかるべき年なんですね。
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