全文を読み終えるのは、初めの頃、5日ほどかかっていたが、だんだんと早くなって、1日で、全文を読み、チェックするようになった。最終的には65回前後は、全文を繰り返し読みながら、この作業が続けられた。
松下幸之助の考え抜いた人間観を、簡単に説明することは、返って誤解されるかもしれないが、その誤解を恐れず、あえて簡単に言えば、次のようになるだろう。
人間として果たすべき責務がある
人間万物は、「宇宙の根源」から生み出された。それは、雑然として生み出されたのではなく、自然の理法に従って、生み出されたものである。そのとき、人間は、この宇宙のなかで、自然の理法に素直な心で従いつつ、万物を支配、活用する、そのような立ち位置に置かれた。
事実、人間は、自然万物を使い、活かし、また、食物連鎖の頂点に立っている。その事実を、人間は、しっかりと認識、見つめなければならない。人間は、まことに偉大な存在であり、わかりやすく言えば、「宇宙の王者」と言える。しかし、それは、人間が傲慢でいいということではない。いや、むしろ、その王者としての責務、王者としての自覚と、それゆえの責任を果たさなければならない。人間は、凡夫匹夫の存在ではない。もし、凡夫匹夫の存在であれば、その程度の責任を果たせばいい、ということになる。違う。
王者としての自覚と、その責務。これからの時代こそ、政治、経済、社会、人間関係、その他、人間の営みすべての根底に、この人間観を置かなければならないのではないか。自然破壊も戦争も、市井の殺伐とした事件も、すべて、「人間が王者であり、その責任を果たさなければならない」という人間観の欠如の結果ではないか。いまこそ、「人間は、偉大な存在であり、だから、人間同士お互いに尊敬し合い、宇宙万物に対する限りない、王者としての愛情を降り注がなければならない」というものである。
松下幸之助の経営を論ずるときも、政治を論ずるときも、その他万般に至るまで、この哲学が根底になっていることを認識していなければならない。松下の言葉、「人間大事の経営」も、「人間から出発する政治」も、「万物への礼」も、「根源に対する感謝」なども、この哲学から発せられている。
松下の経営論、政治論、教育論、社会論などは、いわば「葡萄の房」に過ぎないと言えよう。「葡萄の房」を論ずるとき、「根」である、この松下の哲学、「人間観」を理解せずして論ずるとすれば、極めて皮相的、あるいは、疎なる論と言わざるを得ないだろう。
12月中旬。いつものように、検討が始まったが、お昼前になった時、松下が、急に立ち上がり、腰に手を当て、私の顔を見ることもなく、空(くう)を見つめながら、「江口君、これで、この検討はお終いにしよう」と呟き、そして、付け加えた。「これ、まとめたからな、わしは、もう、死んでもええわ」。
この言葉を聞いた瞬間、私は、胸の鼓動を抑えることが出来なかった。
松下が「もう、死んでもええわ」と言った考えが、「経営観」でもなければ、「商売観」でもない、「人間観」であることを、私は、多くの方々に、永く記憶にとどめて頂ければ、と願うばかりである。
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