金メダリスト水谷隼「卓球で僕が学んだこと」 人と違う道を選び続けて「オンリーワン」になる

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もちろん、失敗もあります。誰にも負けたくないから、人の2倍、3倍練習しようと、自分の限界を顧みず無理したことがあります。先輩から卓球選手は腰痛に気をつけたほうがいいよ、とアドバイスをいただきながらも、僕は若いから大丈夫と過信してケアを怠り、腰痛に悩まされることになったりもしました。

失敗と反省を含めて、いろいろな経験をたくさんすることで、最終的に自分の最高のパフォーマンスができるように、最高のコンディションを整えられる能力が養われたのだと思います。おかげで東京2020大会は、過去の大会の中でもベストな状態で臨むことができました。

レジリエンス、例えばどんなに厳しい状況でもそれを受け入れて適応していく力、落ち込んでも立ち上がる力は、困難を自分で乗り切ってこそ身に付くものではないかと思います。僕の場合、ドイツ留学もつらかったけど、2012年に開催されたロンドン五輪の後、13年が人生で最も苦しい時期でした。

ロンドン五輪では期待されていたのにメダルを取れず、その後の世界卓球選手権でも全日本選手権でも優勝できず、1年を通して戦績が振るいませんでした。ラケットのブースター(スピード補助剤)問題の解決を訴えるために、半年間国際大会の参加を自粛して、練習をしない時期もありました。どんなに周りに助けを求めても、誰も助けてくれない。そんな本当に孤独で苦しい時間を過ごしていました。

――立ち直ったきっかけは何だったのですか。

スポンサーについてくれていたある企業の社長の一言でした。「誰も力を貸してくれない今だからこそ、これから君が残す成績はすべて君の手柄になる。それをモチベーションにして頑張れ」って。そうか、それなら全部自分の力でやっていこうと奮起しました。それで、13年にロシア・プレミアリーグのUMMCへ移籍し、もっと強くなるために日本卓球男子としては初めて自費でコーチを雇って、欧州各国の強豪と戦う選択をしたのです。

そのときは、日本卓球協会のほうでも選手育成のために、ナショナルトレーニングセンターで強化合宿をどんどんやっていこうという動きもあったのですが、やはり、みんなと同じことをやっていたのでは強くなれないと思って、海外へ飛び出しました。

――つねに人の選ばない道を進んできたわけですね。

アスリートの世界では、世界一、絶対的なチャンピオンは1人しか存在しません。高い壁を目指すには、人と違うことをしなければならない。つねに向上心を持って、自分を変えていかなければいけない。僕は、人と違う道を選び続けることでオンリーワンになれるのだと信じ、それを実行してきました。だからこそ、今の自分があると思っています。

夢がなくても大丈夫、失敗を恐れずどんどん挑戦させて

――水谷さんは大きな夢を持ち続けることができましたが、最近では夢が持てない、見つけられないという子どももたくさんいます。

夢がなくてもいいと思います。夢はなくても大抵、欲はありますよね。例えばお金持ちになりたいとか、好きな人と付き合いたいとか。そうすると、じゃあお金持ちになったり、好きな人に振り向いてもらえるようになったりするには、どうしたらいいかって考えるようになると思うので、それを実行すればいいんです。7歳になる僕の娘は、将来ユーチューバーになりたいと言っています。「何、言っているの」と諭す親もいるかもしれませんが、僕は何でもやってみたらいいと思っています。

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