160年前の米国「大統領選」決着後に起きた亀裂 混乱が続く中でどう事態を収拾しようとしたか

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この騒動は後、1859年10月16日、カンザスで数多くの殺人を犯して名を売った過激な奴隷解放運動家、ジョン・ブラウンがバージニア州ハーパーズフェリーの軍の武器庫を襲撃して逮捕、処刑される事件にもつながり、一層南北の対立を深めただけで終わった。

このような結果、民主党は北部民主党と南部民主党に分裂して1860年の大統領選を戦わざるをえなくなった。北部民主党は前述のダグラスを候補とし、南部民主党は元合衆国副大統領のジョン・ブレッキンリッジを候補に擁立する。

当然のこととして民主党の票は分散し、共和党に一致して立ち向かえなくなった。この選挙にはジョン・ベルやサム・ヒューストンといった当時の政界の長老が組織した立憲連邦党という新党も候補を立て、南北双方に「ひたすら妥協を」と訴えて回ったが、もはやそのような穏健な主張が存在感を示せる段階は通り越していた。

かくなる流れの末に、南部はアメリカ合衆国からの離脱を決断した。リンカーン自身は共和党内の穏健派に属し、南部の奴隷制の即時廃止といった主張の持ち主ではなかった。しかし南部民主党は、共和党の大統領が誕生してしまったことそれ自体が、奴隷制解体、ひいては南部社会の崩壊の序曲だと受け取った。

リンカーンの大統領就任は、1861年3月4日に予定されていた。南部民主党はその前に、何かをなさねばならなかった。そして1861年2月初頭、彼らはアラバマ州モンゴメリに新国家をつくるため集結したのである。

第二次独立戦争と呼ぶ習わしがある

戦争当時から現在に至るまで、南部には南北戦争のことを「第二次独立戦争」と呼ぶ習わしがある。モンゴメリに集結した南部民主党の政治家たちの頭の中にあったのは、まさしく1775〜83年にかけてのアメリカ独立戦争だった。

アメリカはもともとイギリスの植民地であった。しかし「代表なくして課税なし」のスローガンに代表されるように、イギリスがあまりにも横暴な圧迫をアメリカ植民地に加えるので、当時の植民地人が立ち上がり、イギリスからの独立を勝ち取ったのである。

南北戦争開戦直前、南部人たちはまさに、独立戦争当時のアメリカ人たちに、自らを重ね合わせていた。つまり、現在の北部(共和党)は南部(民主党)の古来の制度(奴隷制)を誹謗し、地域全体に無用な圧迫を加えているので、アメリカ合衆国という枠組みから独立する――これがアメリカ連合国(南部連合)発足の理論であった。

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