樹海の民宿若旦那がYouTuberになった切実な訳 順風満帆な経営だったがコロナ禍で事情が一変

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大学でもバンドをやり続け、地元シーンを盛り上げるのを目標に頑張っていた。

学生の間に、インディーズバンドを扱うレーベルの中では有名な会社に所属することもできた。

「両親にお願いして、大学卒業後も3年だけ、バンド活動をさせてもらうことにしました。東京に行き、バンド活動を続けました」

毎日が楽しく、当時の恋人と同棲もはじめていたが、無情にも3年は経ちタイムアップになってしまった。

本当はまだ東京にいたかったが、親にお願いして許してもらった3年間が過ぎたため、さすがに言うことを聞かなければなるまいと思った。後ろ髪をひかれながら、山梨県に戻ってきた。

「親からは、地元の公務員の仕事を紹介されました。仕事の内容を簡単に言えば、ボイラー技士です。事務所に行くと、今まで経験したことがない雰囲気で驚きました」

その事務所にはすでに3人のスタッフがいたのだが、いちばん歳が近い人でも20歳年上だった。その事務所に大卒で入ったのはマサヲさんが初めてであり、将来の所長候補として入った。それが現所長には気に入らなかったようだった。

職場いじめに遭った

「まずその所長が、挨拶も話もしてくれません。無視です。そして仕事もまったく教えてくれません。完全に職場いじめですね。

仕事の量は普通の会社に比べればずっと少なかったです。公務員ですから1日8時間労働なのですが、ぎゅっと頑張れば1時間くらいで終わる仕事量でした。後は気の合わない同僚たちとずっと事務所にいなければなりません。それが忙しいことよりもずっと苦痛でした」

だが給料的には悪くはなく、将来的にはポストにつけるという約束もあるため、なかなか辞めるという決断はできなかった。

しかし5年働いた30歳の年、あまりにつらくなり辞職することに決めた。

「人生初の挫折体験でした。30歳から転職してもなかなかいい職を見つけることができない気がして、民宿丸慶を継ぐことに決めました。両親も賛成してくれました」

ただ、それまでの人生では民宿経営に必要なスキルは一切身につけていなかった。

そのため、しばらく修業をしてから、改めて跡を継ぐことにした。

「いとこがホテルで板前をしていたので、頼み込んでワンシーズンだけ同じホテルで修業させてもらいました」

それまでは包丁を握ったことはなかったが、そこで料理のいろはを学んだ。

そして違うホテルに移り、フロントで働いた。そこでビジネスマナーや旅行会社とのやり取りを学んだ。

仕事をしながら学ぶのはもちろん、セミナーに通ったり、ビジネス書を読みあさったり、自分なりにスキルを得ていった。

次ページ取り戻すために一生懸命がんばった
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