大改装で変わる「渋谷地下街」の知られざる歴史 スクランブル交差点下「しぶちか」で生きる人々

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渋谷では後にしぶちかの理事長となる並木貞人が先頭に立ち、まず、飲食露店には都の清掃用地が払い下げられることになった。これが現在もあるのんべい横丁である。

闇市時代には120店ほどあったというが、途中で転廃業した店もあり、実際に1951年8月に開業にこぎつけたのは40店舗ほど。一坪5000円で、5年年賦で払い下げられており、ビルに建替えられることなく現存(2020年時点で38軒)しているのは、その時に組合から割り当てられた2坪ほどの土地がすべて個人所有になっているためだ。

東急の創業者に「交渉」

一方、残りの物販露店は組合を作って払い下げを受けようにも渋谷には土地がない。そんな時、渋谷区職員の言葉にインスパイアされ、並木は地下に商店街を作ることを思いつく。ただし、地下商店街としたために、東京都の露店対策本部の更生計画から除外されてしまい、自力で建設せざるを得ないことになった。

交通の遅滞が許されない渋谷駅前に、戦後の混乱期に集まった人々が4憶円に近い巨額を投じて地下街を作ろうという計画である。実現性などに都が懸念を抱いたのは無理もない。東京都建設局長の石川栄耀、当時の安井誠一郎都知事の実弟で知事秘書を務めていた安井謙(のちに参議院議長)らの支援を得て並木が奔走、建設許可の見込みを得たのは、組合設立から1年半後の1951年のことだった。

次の問題は資金調達。並木は石川のアドバイスで東急の創業者、五島慶太に支援を求めるが、この交渉にも時間がかかった。五島は当初、前例の少ない寒くて暗い地下街で商売が成り立つと考えておらず、大手企業と露店集団の共存共栄は無理と考えていた、と各種資料は伝える。だが都の説得に態度を軟化、合意に至って着工したのは1956年のことである。

だが、その後も波乱は続く。しぶちかでは開業から25周年、45周年を記念して冊子を作っており、それによると、当初の合意は東京都が並木に与えた地下街の権利を東急に譲渡、地下街全体の1300坪のうちの約150坪ほどを並木側に無償譲渡する、など4項目が骨子となっている。

だが、オープンを目前にした1957年の夏にこれらの合意条項をめぐって齟齬が生じ、同年12月1日の地下街オープン時には、地下街は開店休業の状態だったというのである。最終的には初期開業に遅れること10日、約150坪は無償譲渡から賃貸借契約となり、12月11日にしぶちかがオープンした。

苦難に続く苦難を経てのオープンだったが、それを忘れさせるほどしぶちかはにぎわった。わずか2坪ほどの店に配達要員を含めて7人がいた時代があった、と63年間営業を続ける東京生花の石川正明氏は振り返る。

「代々木にワシントンハイツ(代々木公園からNHK放送センター周辺の92.4万㎡に及ぶ在日米軍施設)があった時代には、しょっちゅう祝いの花を配達していましたし、大安前夜には結婚式のコサージュ、ブーケ作りで寝たことがないほどでした」

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