「肩書にとらわれない」32歳の自由な働き方 世界を沸かせるヒューマンビートボクサー

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長野県で生まれたリトモ氏は、小さな頃から異様に口まねがうまかったという。ウルトラマンの効果音や怪獣のまねが得意だったが、友達から頼まれると本気でまねをしすぎて引かれるほど。一方、ピアニストの母親からピアノを習ったこともあるが、厳しい練習や理論を覚えることは向かなかった。

14歳のとき、初めてアカペラのボイスパーカッションを聞いたとき、「これだ」と思ってまねしてみると、1時間ほどで一通りできるようになってしまった。「これは自分に向いている」と直感したリトモ氏は、アメリカからボイスパフォーマンス用の教則ビデオを取り寄せ、朝から晩までビデオを見ながら練習しまくった。

留学先のアメリカで出た大会で優勝

アメリカから取り寄せた教則ビデオ(撮影:今井 康一)

バンドであれば複数人必要だが、「ヒューマンビートボックスだったら、いろいろな仲間を募らなくっても1人でパフォーマンスできるな、と思った」。同じ頃、日本でもヒューマンビートボクサーが出演するCMが話題となったこともあって、地元のライブハウスに出始めるようにもなった。

子供の頃からアメリカの音楽や文化が好きだったこともあって、高校卒業後はアメリカ・ボストンへ。ここでもリトモ氏は持ち前の身軽さを発揮する。通っていた語学学校のそばにあるいきつけのCDショップの店主と仲良くなるうちに、「ビートボックスのバトルの大会が裏のクラブであるから出たらどうだ?」と持ちかけられ、言われるがままに出場したところ、優勝してしまう。19歳のときだ。

「これはプロになれるかも」と、またもや直感したリトモ氏は、その後アメリカでライブ活動を始めるようになる。ただ、「日本人のアイデンティティーをちゃんと確立してから、仕事で海外に行ったほうがいいのでは」と感じるようになり、日本に帰国。その後、大学へ通いながら、日本のクラブのイベントに週3、4回出るようになった。

その後も、時にアルバイトをしながらビートボクサーとしてのキャリアを積んでいたリトモ氏。2015年には靴デザイナー、三原康裕氏の目にとまり、同氏のパリコレのショーでパフォーマンスを披露する。このとき、オファーを受けたのはなんと2週間前だったが、2つ返事で出演を決める。

さらに、翌年には毎年3月にアメリカ・テキサス州で開かれる音楽や映画などの大規模イベント、サウス・バイ・サウスウエストに出演。これが「今までで1番というほど激烈に楽しかった」と振り返る。

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