振り向けば独走、駅前一等地に大増殖中のラーメンチェーン「ハイデイ日高」
パチプロから一念発起 長時間営業で悪立地克服
神田は41年に川越に生まれ、近隣の日高町で育った(社名はこの地名に由来)。父は傷痍(しょうい)軍人で十分に働けず、母がゴルフ場のキャディをして神田以下4人の子供を育てた。神田自身も休日はキャディのアルバイトにいそしみ、家計の一助とした。
中学卒業後、工場に入る。その後一時ホンダにも勤めたが、やはりすぐ辞めた。「子供時代の貧乏で、キャッシュに飢えていた」。神田にとって、仕事の全体も、成果としての現金も見えない作業は魅力がなかった。その後ゴルフのレッスンプロをしたり、パチンコで生計を立てたり。自分でも「これではまずい」と思っていた矢先、友人が紹介してくれたのが中華料理屋だった。
まさに渡りに船。技能はないから出前が仕事、無免許バイクで警察にも配達した。厨房をのぞくと自分でもできそうだ。何より、客からカネをもらうのが先で、仕入れ先への支払いが後というのが気に入った。
その後数軒で経験を積み、29歳のとき、ついに経営者から店を任される。東武野田線岩槻駅に近いテナントビル「岩槻名店街」2階の来来軒。だが場所が悪く、程なく閉店。途方に暮れる神田にテナントの大家が支援を持ちかけた。これまた乗った。屋号は前の店、来来軒を引き継ぐが、同じ轍を踏まぬよう営業時間を長くした。昼前に店を開け、未明に閉店。深夜には驚くほど客が入った。
こうなるととても一人では回せない。神田が頼ったのが、実弟で三つ下の現専務の町田功。神田が鍋を振り、町田が出前と洗い場。「終電で帰り、9時に出勤して、小上がりで寝ている社長を起こすのが日課だった」(町田)。神田は家に帰る時間も節約した。
が、好事魔多し。町田に言わせると「楽して儲けようと思って」手を出したスナック経営が命取りになる。スナックの赤字を埋められずに連鎖倒産。幸運にも店の内装が売れ、その代金で借金と町田の“退職金”を払った神田は岩槻を後にした。
残金約30万円を懐にした神田が「貸し店舗」の張り紙を目にしたのが大宮の繁華街・北銀座。わずか5坪で出前が不可欠。再び町田を呼んだ。狭い店だったが立地はよく、昼も夜も出前の注文が舞い込んだ。神田は妹の夫で六つ下である現専務・高橋均にも声をかける。寝る間も惜しんだフル稼働で、大宮最大の繁華街・南銀座出店にこぎ着ける。ここも路地奥で苦戦したが、やはり深夜営業で客がつく。
2店舗の成功で、神田の頭に「事業」の2文字が灯った。ここでのれん分けをしたら、まさに「田分け」。神田は一丸となっての企業化を提案するが、弟2人は半信半疑。5年前の70年にすかいらーくが、71年にマクドナルドが初出店した時分だから、それも当然の反応だ。そこで具体的な目標を示した。「まず10店、その後赤羽まで京浜東北線の各駅前に来来軒のちょうちんを掲げる」。
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