米倉誠一郎「幕末人はこんなに創造的だった」 砲術家・高島秋帆のクリエイティビティ
秋帆は砲術家であるとともに企業家でした。彼は、長崎貿易の脇荷と称する特権が与えられていました。砲術や西洋知識に必要な物品を調達し、各藩に転売したり、模造品を製作販売するなどして、大きな利益をあげていました。その利益は、すべて西洋の兵器や外国書の購入にあてられていました。その蔵書は、当時の日本随一であったといわれています。
しかし、時代は天保の改革の最中で、蘭学者弾圧の一環として、嫌疑をかけられました。密貿易によって武器を輸入し、謀反を企てているという。その後、謀反の嫌疑は晴れたものの、身分不相応な取引についての罪状を問われて、1845年に安中藩の他家幽閉の身になりました。
「外国交易の建議」の先見性
秋帆が恩赦で自由の身になったのは、1853年でした。10年後の日本は、秋帆がアヘン戦争時に危惧していたことが現実になっていました。欧米列強は、日本に開国を盛んに要求していました。ペリー来航によって、幕閣や諸侯からは、「海防をあつくして、夷敵打つべし」という攘夷論が盛んでした。
しかし、秋帆の構想はまったく異なるものでした。その思いを「外国交易の建議」として書き上げ、幕府へ上申しようと決意しました。上申書ではアヘン戦争など、古今東西の騒乱を分析した上で、ペリーの要求の裏を読みながらまとめあげたのです。
秋帆は、米国側の挑発に乗ることを戒め、米国側は日本が開国通商に応じないことを承知の上で、このたびの要求を突きつけ、日本側との開戦を誘った上で、圧倒的な武力をもって日本を支配下に置くことを目的としていると説きました。
そこで、秋帆は即時の開国通商を提言しました。しかも、通商は富国強兵の源と力説します。秋帆は脇荷貿易を通じて、海外貿易の重要性を認識していたからです。ペリー来航により攘夷論が盛んになる状況下で、秋帆は「武力による国防は到底不可能であり、和平開国こそが、日本の生き残る道なのだ。米国の挑発に乗ってはいけない」と警告しました。
10年近い幽閉後、わずか3カ月で書き上げたものでした。秋帆は切腹覚悟で上申する決意を固めて、1855年秋帆の「嘉永の上書」は、老中・堀田正睦(まさよし)に提出されました。
ペリーの要求について、堀田はいくつもの評定を重ねて、最終的に米国側の意向を受け入れ、開国通商の道を選択しました。この意思決定に、どれほど秋帆の主張が影響を与えたかは明らかではありませんが、その後の展開を見る限り、堀田に影響を与えたのではないかと思われます。
近年になり、幕府の和戦開国に至る意思決定を、従来の幕府の優柔不断説という通説を覆し、巧みな外交結果と再評価する動きがあります。たしかに、幕府の対応を批判するのは簡単ですが、隣国に仕掛けられたアヘン戦争の結果を知り、眼前に米国海軍の圧倒的な軍事力を見せつけられた当時の人々にとって、開国要求に対する判断は簡単なものではなかったはずです。秋帆の主張は、次の2つでした。
この2つの方向性こそ、その後、日本に訪れるいくつもの危機を救った基本姿勢になったと思います。戦後の通商国家・日本に通じる構想でもありました。世界に開かれた情報感応性をベースに通商と学びの姿勢を貫いたとき、日本はたぐいまれな創造的対応能力を示すのです。
幕府の優柔不断とも見える判断を可能にしたのは、開かれた知識をもとに、和平通商を構想しえた高島秋帆の見識が大きかったと考えられます。彼の「通商和平」という考え方は、日本を欧米列強の植民地化から守り、独立と近代化への道を歩ませたといえるのです。
(構成:アトミック)
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