「小さい政治」を捨て去れ、価値の創造こそ政治の役割--田中直毅
ポスト冷戦という議論は日本でもありましたが、その内実はといえば、冷戦時の話をしていただけです。冷戦が終了しても、その解釈学や訓詁(くんこ)学に没頭していた。本当は冷戦以後を語らねばならないのに、脱冷戦といって冷戦の解釈をしていた。その姿も日本の政治が小であり脇であったことの証左です。
90年代、日本の政治が時代にまったくそぐわなかったことは、GATTのウルグアイ・ラウンドでの妥結に伴い、国内の農村対策だけに6兆円余を投じたことからもわかります。コメの関税化の受け入れ、それだけのためにカネが投じられた。しかし、それによって日本のコメが安くなったわけでもないし、農業の生産性が高まったわけでもない。
旧来の思考にとどまっている自民党が、衰退のトレンドラインを下がり続けているのは、ごく自然なことです。総理そのものも談合で決まる。総裁選でも勝利者の側に立つためだけに、票の算段をするという発想です。小泉時代には、その長期トレンドラインに変化が生じたかのごとく映りましたが、それは一時的なものでしかなく、小泉時代が終われば元の下方トレンドの線上に戻ることになりました。余分に時間が経過しただけ、質の劣化が進行していたともいえます。
総選挙で問われる新しい日本のかたち
どうすれば長期にわたり、decentな生活を国民に保証できるか。それは、付加価値生産の仕組みをどのように改革するのかという一点に絞り込まれることになるでしょう。短期的には、原油の値上がりで苦しむ、たとえばイカ釣り漁船を助けるという働きかけも必要かもしれません。政治の役割の一つに衝撃緩和もあるでしょう。しかし、こうした調整は脇の課題として位置づけられるべきものです。
もう一つ例を挙げます。非正規雇用の拡大が好ましい状態ではないことは誰もがわかっています。だがそれがなぜこれほどまでに広がったのか。別の言い方をすれば、どのような付加価値生産の体系をつくらねばならないか、それを通じて正規雇用を増やすための努力をしないと、政治の役割を放棄していることになるはずです。
小泉改革が地方の活力を奪ったという人たちがいます。総裁選に当たっても、地方が切り捨てられたと論じる人がいました。しかし地方からの恨みの声は、自民党政治の既得権者がそれを失ったから声を上げているという面があります。そもそも小泉改革とはそれをなくすことが目的だったのですから。小泉改革をやめれば、あるいは小泉的な手法を排除すれば、元に戻れるんだと考えているのであれば、それは誤りです。
近く総選挙があります。その総選挙では自民党議員300人のうち100人近くが引退と落選によって議席を失い、他方、総選挙後入党手続きをする議員は20人近くは出るのではないでしょうか。民主主義がすごいと思うのはこうしたことです。政治家は任期があって、有権者は結果的に入れ替えを図ることができます。やがて顔ぶれが変わります。
小泉改革と05年の郵政選挙で、有権者は気づいているはずです。政治が何をすべきか、そしてこれまで何をしていないか。小泉政治を劇場型だといまだに言う人がいるが、本質は改革の突破口が見えたということです。小と脇の特殊仕様ではもはやもたない中で、何を実現させるのか。
次の総選挙はこの国をどうしたいのかについて、国民もまた新たな知見を加えることになるでしょう。
(長谷川隆 撮影:今井康一 =週刊東洋経済)
たなか・なおき
1946年愛知県生まれ。東京大学法学部卒、同大学大学院経済学研究科修士課程修了。国民経済研究協会主任研究員を経て、84年より本格的に評論活動を始める。97年21世紀政策研究所理事長、07年に国際公共政策研究センターを設立し理事長に。
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