「風刺漫才」が日本では受け入れられない理由 そもそも「民主主義の概念」が輸入モノだ
ところで風刺は社会においてどのような意味があるのだろうか。
原点としてよく紹介されるのが、中世の王家では道化師を召し抱えていたという話だ。道化師は主人を楽しませるだけではなく、風刺も行った。王侯貴族にとっては、風刺を通して自らの「まつりごと」について、本当の状態を知ろうとしたというものだ。
いいかえれば、道化師は権威者の状態や社会の真実を映す鏡とでもいえようか。カバレティストにもそんな面があるし、毎年2月にドイツで行われる伝統的なカーニバルでも、街の通りを練り歩く山車には政治や社会に対する皮肉や風刺を造形したものが多い。また「アリはなぜよく働くのか、それは労働組合がないからだ」といった類の風刺演説も行われる。
風刺はジャーナリズムの役割に似ている
社会を映す役割という点では、ジャーナリズムにも似ている。ジャーナリズムの定義は様々あるが、まず社会の事実を切り取る。さらにそれに対して解釈や価値付けを行う側面がある。
日本では記者の主観や意見を入れない「客観報道」が重視されるが、取材で得た事実をどう伝えるかは、程度の差こそあれ、記者や媒体のバイアスはかかる。むしろ事実はきちんとおさえつつ、それを多様な立場から解釈や価値付けがなされることに値打ちがある。そこには社会における問題や課題の提示があり、議論喚起につながる。いわば社会の「ツッコミ役」である。民主主義社会ではきわめて重要だ。
欧米の芸術家たちもジャーナリズムに似たものを持っていることが多い。彼らは記事ではなく、作品化を通じて問題提起にまで及ぶ。彼らもまた社会の「ツッコミ役」といえる。コメディによる風刺もそういう芸術の一分野と見ると説得力が増す。「地域のトレンドを映しだし、世界中の問題を地元の方言でお客さんに伝えることが仕事」(カール・クラウスさん)。
もうひとつ考えなければならないのが、社会の「ツッコミ役」がドイツでは成立する理由だ。結論を急ぐと、風刺のお笑いを楽しむ客(国民)もまた「社会」への関心が高いという前提があるから、こういう芸が成り立つのだろう。
「社会」とは何かというと、複雑な議論がたくさんあるが、民主主義の国では、「人権」「自由」「平等」「寛容」などの諸概念でが覆われた場のようなもので、政治にも当然適用されている。さらに、こういう言葉は権力への抵抗とも伴走しており、その結果「社会とは自分だ」とでもいうイメージを持ちやすい。1960~1970年代のドイツはカバレットが大いに盛り上がったそうだが、当時は学生運動が盛んな「政治の季節」だったからというのもうなずける。
そして今日でも人権や自由といった大きな概念が、ドイツの日常にわりと広範囲に入り込んでいる。たとえば学校教育でも、「ドイツの小学生が『デモの手順』を学ぶ理由」で触れたように、授業のカリキュラムの中に取り入れられている。
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