国立「三角屋根の駅舎」復活までの長い道のり 解体保存の部材使い復元、2020年完成めざす

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満開の桜と国立駅旧駅舎(提供:国立市)

堤にとっては大学が誘致できれば環境のよい住宅街が建設できるし、大学にとっても周囲が歓楽街化されないのは、学びの場としては最適である。両者の意向は合致し、見渡す限りの雑木林だった同地は大学町として生まれ変わることになる。

その際、堤と佐野がモデルとしたのは、ドイツの学園都市ゲッティンゲンだったといわれる。ヨーロッパの街に多く見られるが、中心に大聖堂があって広場があり、そこから目抜き通りが伸びるというスタイルである。

ならば大聖堂のようにシンボルとなる駅舎を建て、広場を設け、そこから目抜き通り、つまり現在の大学通りを直線に引けばいいと考えた。そのときすでに中央線は走っていたが、最寄りの駅はなかった。そこで「箱根土地」自らが駅を作り、当時の鉄道省に寄付。国分寺と立川の中間にできる新しい駅として、両駅から1文字ずつ取って「国立」と名付けようと声が上がり、「この地から新たな国が立つ」という願いとあいまって、受け入れられたとされる。

つまり、国立とは駅を中心にして作られた街であり、駅舎はヨーロッパの大聖堂のごとく意味を持つ、大切なシンボルなのである。

「曳き家」で存続を模索

駅舎撤去の方針が広まるにつれ、市民からは「壊さないで」「なんとか残せないものか」という要望が多数寄せられ、2001年には駅舎存続を目指す有志の会も作られた。国立市は旧駅舎を存置したまま連立事業を進めることはできないかなど、保存を希望したが、事業推進に支障があるとの理由から思いはかなわなかった。

なぜなら、連立事業の事業主体である東京都にとっても、中央線連続立体交差化事業は、三鷹─立川駅間に多数存在した「開かずの踏切」をなくし、都内の深刻な渋滞緩和を目指すトッププライオリティだったからだ。

そこで市は新たな方法を模索する。旧駅舎は木造建築なので、建物を解体することなくそのまま移動する「曳き家方式」で別の場所に移し、工事が完了してから元の位置に戻すことを考えた。

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