世界が知ったチベット問題 多民族国家での民族自立とは何か

18世紀、清朝最盛期の皇帝である乾隆帝は深くチベット仏教に帰依した。現在の河北省に「外八廟」と呼ばれる壮大なチベット仏教寺院群を巨費をかけて建設する。チベットのラサにあるポタラ宮殿を模した「小ポタラ宮」まで建設する。チベット仏教の壮大なテーマパークである。その中心にある熱河離宮で、乾隆帝は1780年にチベットからパンチェン・ラマ6世を招いて、仏教の祝祭を執り行う。

このとき、乾隆帝はパンチェンラマ6世に皇帝と同じ待遇を与えたばかりか、衣服を僧服に替えた際には、信者としてパンチェン・ラマ6世の前にひざまずき、叩頭している。

パンチェン・ラマはダライ・ラマの次の位の僧侶である。その僧侶に天下の皇帝がひざまずいたのだ。

清は民族の独自性を望んだ

清朝の皇帝がここまでチベット仏教に帰依した動機は、同盟者であるモンゴル人の歓心を買い、チベット仏教の影響力の強い地域の政治的安定を図るためだった、といわれている。だが、「清朝の国教はチベット仏教」とチベット仏教の側が考えたとしても無理はなかった。

清朝を株式会社に例えると、満州人とモンゴル人の統治者が持ち株会社を作り、その傘下に漢人、満州人、モンゴル人、チベット人、ウイグル人が連なる。それぞれの企業は独自の企業文化を守りながら、持ち株会社に貢献するという仕組みだったように見える。この中で李氏朝鮮は持ち分法適用会社に当たるかもしれない。

清朝の皇帝は、漢人に対しては、「中華皇帝」、モンゴル人に対して「大ハーン」、チベット人に対しては、「文殊菩薩」、ウイグル人などイスラム教徒に対しては「イスラム教徒の保護者」とそれぞれ顔を使い分けながら、同君連合の形で、統治する。清朝の皇帝が望んだことは、臣民の同化=漢人化ではなくそれぞれが独自性を保つことだった。

だが、清朝は1895年、アジアでいち早く西洋化=国民国家化を実現した日本に敗北する。その衝撃から清朝も西洋化=国民国家化を志向する。もはやモンゴル騎兵もチベット仏教も無用の存在になる。清朝とチベット仏教の蜜月は終わる。

清朝崩壊後の1913年から50年ころまで、チベットはつかの間の「独立」を享受するが、国際的な承認を得る努力を怠り、50年に中国人民解放軍の侵攻を受けて、中国に編入される。56年の中国に対する武装蜂起失敗後、59年にダライ・ラマ14世はインドに亡命する。亡命政府の要求は、中国の主権は認めつつも広範囲な自治権の回復である。

だが、中国はチベットに対しても同化を進めている。これを亡命チベット人から見れば、チベット固有の文化の消滅=漢人化である。亡命チベット人は、中国に対して効果的な抗議活動をする力をつけているが、広範囲な自治権回復を実現するだけの力はない。チベット問題は多民族国家での少数民族の自立はどうあるべきかという、今日、世界各地で起きている課題を突き付けている。
(内田通夫 =週刊東洋経済)

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