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「中道」という政党に大きな違和感を覚える理由、「中間は常に悪である。中間の人間は戦いに関与しないことを是とし、真実を抹消する」

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冒頭に引用したランドの代表作『肩をすくめるアトラス』の作中の有名な台詞は次のように続く。

「中間は常に悪である。誤っている人間はまだしも、選択の責任を引き受けるだけではあっても、真実への敬意を保っている。だが中間の人間は戦いに関与しないことを是とし、真実を抹消する」

聖書には「裁くな。そうすれば裁かれることはない」という教えがある。実際、上から目線の人間はうっとうしく、最近の若者の言葉でも他人を「ジャッジする」人は煙たがられる。だがランドにとって裁かないこと、つまり他人の倫理に寛容であること、善悪を判定しないことは道徳的責任の放棄であり怠慢だった。

リバタリアニズムの教祖的存在として知られるアイン・ランド(写真:アイン・ランド協会)

ランドにとって裁くとは、「与えられた具体的な物事を、抽象的な原則あるいは基準に照らして評価する」合理的な思考プロセスである。道徳的価値が明確に言語化されていれば、道徳的中立は悪と判定できる。食物と毒物の判断を誤れば死がもたらされ、善と悪の判断を放棄すれば悪がはびこり続ける。

裁くことはやみくもな非難の応酬を続けることを意味しないが、「黙っていることが悪への同意または承認を意味すると客観的に解釈される状況では、声を上げなければならない」「拷問者を非難しないなら、拷問と殺人の共犯になる」(アイン・ランド『セルフィッシュネス』Ayn Rand, The Virtue of Selfishness, 1964)

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