主体性は“「大人がやってほしいこと」を進んでやる”ことではない
主体性が大事だと言われますが、そもそも主体性とは何なのでしょうか。
私は共著『「これくらいできないと困るのはきみだよ」?』の対談の中で、【「こちらがやらせたいことを自ら進んでやってほしい」というのを「主体性」と呼んでいることがあるような。それは主体性ではないな、と思うんです。本当に主体性を求めるんだったら、自由度をもっと上げないと出てこない。】という話をしました。この部分については出版後、意外なほどたくさんの方から共感の反応をいただきました。
私なりに主体性を定義すると「その人の内から湧き出る欲求に基づき、(意識的であれ無意識であれ)自己選択・自己決定し、他者や環境との関わりの中で表現・行為すること。そしてその責任を自分のものとして引き受けること」だと思います。
主体性とは本質的に「内から湧き出る」ものであり、他者から不可侵かつ、操作・コントロール不能なものなのではないでしょうか。他者が規定した尺度で、定量的に客観的に測ろうとした瞬間、歪んで、手のひらから消えていくような性質のものだと思うのです。
Xで漫画やイラストを投稿しているきしもとたかひろさんが以前こんな投稿をしていました。

きしもとさんは主体性を「自ら率先して行動する姿勢」ではなく、「自分の意志で行動を選ぶ姿勢」と表現しています。とても共感します。
上述の“内から湧き出る欲求”も「やりたい」だけではなく、「やりたくない」も含まれるイメージです。大事なのは、行為・行動の内容ではなく、「その人の上に矢印があるか」。本当にそうだと思います。
School Voice Project(筆者が発起人である、教職員の声を集めて発信する活動のこと)のイベントでご一緒した際、きしもとさんは「子どもたちは、たのしいは自分でつくれる。大人がやるべきはしんどくないをつくること」ともおっしゃっていました。非常に納得できる言葉です。
主体性は、どんな子も生まれながらに持っているものだと私は考えています。もし、外から見えにくくても、事情があって“湧き上がってこない”状態になっているとしても。「ない」「足りない」前提で他者が「つくろう」「高めよう」とするのは暴力的ではないでしょうか。
本当に問うべきは、「なぜ“湧き上がってこない”状態になっているのか」、「なぜ(今この状況下では)発揮されないのか」だと感じます。そしてそれは多くの場合、「大人の(つくった環境の)せい」だと思うのです。その意味では足し算的な関わり(刺激する、促す、介入する)より、引き算的な関わり(抑圧しない、見守る、応援する)がまずは大事なのかもしれません。
文科省が「主体的に学習に取り組む態度」を評定外に方針転換
先日、学習指導要領改訂に関する文科省の中教審の教育課程企画特別部会において、現在評価の一要素となっている「主体的に学習に取り組む態度」を、通知表などで示される「評定」に直接反映させない方向性が示されました。
この件では、私はこれまで現場の先生たちの違和感や悩みをたびたび聞いてきました。例えば「客観的評価なんて無理だし、すべきでもないと感じる」「子どもたちの学ぶ楽しさや内心の自由を阻害し、忖度を生み、弊害が大きい」「提出物や課題を増やす結果になって生徒の負担が増えている」など。
教育課程企画特別部会で示された資料では
といったことが書かれています。いずれも現場で起こっている難しさやジレンマを的確に捉えていると感じます。
私はこれまでヨーロッパを中心に海外の学校現場もたくさん見てきた中で「日本(東アジア)は社会も学校も“態度主義”が強い」と感じてきました。背筋を伸ばして話す人を見る姿勢など 、“見た目 ”つまり外的に評価できることや「形式・かたち」を重視する傾向が強いということですが、これと「主態」評価を評定に反映することの相性もすこぶる悪いのです。
主体的にやっている風に見せればいい、先生の望む自分を見せればいいという「かたちだけ整えるスキル」≒忖度を育むことになり、それは主体性とは真逆のものになります。実際、これは現在進行形で起こっていることです。
いったん導入したものを「うまくいってないからやっぱりやめる」というのはこれまでの文科行政においては難しいことだったと思います。ですが、本来はその選択肢は当然あるべきで、上記の方針は英断だと思いますし、強く支持・賛同しています。

非認知能力の数値化という「ディストピア」
主体性と同様に、私は非認知能力についても定量的に測ろうとするのはやめるべきだと考えています。非認知能力とは「認知能力(知識や計算力などのテストで測れる力)」に対して、意欲・協調性・忍耐力・自己制御・共感・感情調整力など数値化しにくい力のことを指します。
そもそも「数値化しづらい」力なのに、それを無理に数値化しようとすると、主体性のところで述べたような弊害が起こるのではないでしょうか。そして認知能力を評価されるより、ある意味で人格や人間性のような内容を含む非認知能力を評価されるほうが、よりきつくないでしょうか。
私は、広告などで時折見かける【非認知能力を「育てる」・「高める」】という言い方に違和感があります。自分の子どもの保育園を選ぶときも「非認知能力を育む」とうたう園を最初に除外しました。非認知能力と呼ばれるような力は、子どもの主体を尊重し「自分で選ぶ・やってみる・失敗できる」環境があれば、結果として育まれるもの、副産物的に育つものだと思います。
それに名前がつけられ、目的化したとき、子どもたちは狭いところに押し込まれてしまわないでしょうか。なぜなら、大人の関わり方が変わるし、能力獲得が目的になると、その子ども自身はそのための道具になり、客体化されてしまうからです。
主体は子どもであり、大人ができることは、環境を整えること・関わり方を工夫すること。そこがズレて、非認知能力そのものを目的化するようなことになっては、ろくな結果にならないと思うのです。
非認知能力が子どもの「商品価値」を上げる?
非認知能力については、もう1つ違和感があります。上述した“目的化していることへの違和感”ともつながりますが、子どもをよい「商品」にするための付加価値として認識され、語られているのではないかと感じるのです。
社会経済的地位を高めるために、これまで認知能力(学力)をつけることで戦える子にしていこうとされていたのが、最近は非認知能力に代わってきています。能力主義・競争主義の前提は問い直されないままに、そこで機能する力が、非認知能力に置き換わっただけ。中心にあるのは、子どもの権利や人間の尊厳の尊重、人権や民主主義の観点ではありません。

学校DE&I(多様性・公正・包摂)コンサルタント/Demo代表
学校におけるDE&Iをテーマに、研修・執筆企画、学校現場への伴走サポート、教育運動づくり等に取り組んでいる。フリーランスとしての活動のほか、学校DE&Iの実現のためには現場のエンパワメントが必要との思いから、全国の教職員らと共にNPO法人 School Voice Projectを立ち上げ、理事兼事務局長として活動に従事。著書・共著は『読んで旅する、日本と世界の色とりどりの教育』(教育開発研究所)、『「これくらいできないと困るのはきみだよ?」』(東洋館出版)他。大阪で社会経済的に厳しい環境に置かれる子どもたちが多く通う地域で生まれ育ったという自分のバックグラウンドもあり、若い頃から人権教育や教育格差の問題に関心を寄せてきた。同時に学生時代にフリースクール運動や国内外のオルタナティブ教育に出会う。現在は、公教育(制度内学校)に活動領域を絞り、地域の公立学校が誰も排除しない民主的でインクルーシブな場になってほしいとの思いで、仕事や活動を行っている
(写真:本人提供)
外国の例ですが、コロナ前にタイに行ったときにとても印象的だったことがあります。公立学校はほとんど一斉指導、チョーク&トークの従来型のスタイルなのに対し、教育への関心の高い富裕層は、非常に高い学費を出してモンテッソーリなどのオルタナティブ教育を選んでいたのです。これは、富裕層や教育熱心層ほどオルタナティブ教育や非認知能力獲得に投資する現状への違和感、とも言えます。日本の状況もそれほど変わらない気がしています。
私は20年近く、日本におけるオルタナティブ教育の広がりや発展をわりと近いところで見てきました。日本のオルタナティブを牽引してきた人たちは、子どもの権利や民主主義などの価値に立脚して動いてきたと思います。認知度ゼロのところから、試行錯誤しながら現場をつくり、啓発や発信をして裾野を広げてきた方たちのことを心から尊敬しています。
ただ、ここ10年ほどの社会的認知の高まりは、「
でも、私の理解では、オルタナティブ教育とはそういうものではありません。既存の構造を問い直し、システムではなく、子ども(人間)を中心に置いて、構築されてきたものです。社会適応ではなく社会創造を目指すものです。
「オルタナティブ教育いいね」という言葉を聞いたとき、その底流にある思想が、競争原理・能力主義なのか、人権・民主主義なのか、私はいつも丁寧に聴き分けたいと思っています。同じように「主体性が大事」「非認知能力が大事」「多様性が大事」という言葉も、慎重に聴くようにしています。そのうえで、連帯することができるのか、対峙して対話する必要があるのかを考えています。
「はやり言葉」の前提や文脈に要注意
主体性も非認知能力も、人が豊かに社会で生活していくうえで重要なものだと思います。しかしこうしたはやり言葉が、どんな前提・文脈で語られ、どう機能していくのかということに、敏感・慎重である必要があるのではないでしょうか。子どもたちがしあわせに育ち、生きられること。平和で公正で民主的な社会と世界をつくっていくこと。軸はそこにあってほしいと私は思います。
「自分の上に矢印がある」学びや暮らしができ、結果として非認知能力と呼ばれるような力が育まれるような環境が、どんな子たちにも保障されるといいなと願っています。
本当は、こうした話をいろんな人がさまざまな場で会話・議論・対話することが、子どもたちが育つ社会環境をつくるうえで一番大事なのかもしれません。ぜひ身近な誰かと「主体性ってなんだと思う?」「非認知能力ってどう思う?」と、話をしてみていただけたら、うれしいなと思います。
(注記のない写真:izolabo / PIXTA)