「不親切な教師」こそ親切、子どもの主体性を育てるために教師が身に付けるべきこと 「みんな」への誘導が子どもを苦しめることも
子どもはそれぞれ、凹凸のポイントが全く違います。親切な教師は、凹んでいる部分をあの手この手で埋めようとします。あるいは、凸部の方を削り取って何とか丸くしようとします。凹凸が、気になって仕方がないのです。熱心に、何度でも、あきらめずに繰り返します。それが子どものためという強い信念があるからです。そこには善意しかありません。疑問が入り込む余地もありません。
善意で行われることが実は誤っている時ほど厄介なものはありません。誤ったことをしているという自覚があればどこかでやめるのですが、行為者に自覚がなければその歯止めが利きません。そして、その行為が良いか悪いかを決めるのは、行為者ではなく、受け手の側なのです。
残念なことに「親切な教師」であるほど「熱心な無理解者」(児童精神科医· 佐々木正美氏の提唱)になりやすいのです。相手はそれを欲していないのに、熱心に勧めてきます。しかも、あの手この手で、しつこく何度も。そこには「かわいそうなあの子を救ってあげよう」という善意しかありません。
相手は本気で嫌がっているのに、そうは思えないのです。窮地にいる相手を自分こそが救ってあげようという救世主的善意です。これは非常に厄介です。善意で押してくる側が、自分の生活に近いほど性質が悪くなります。子どもにとってその最強の存在はもちろん親で、教師はそれに次ぐくらいの立場の強さです。
落ち着きがなく席に着けない子どもがいるとしたら、何とか席に着かせようとします。普通に言ってもきかないので叱責が段々強くなります。言葉ではきかないので、物理的に押さえつけるようになります。
椅子に無理矢理座らせても嫌がって暴れるので、他の大人を付けるなどしますが、ますますひどくなっていき、やがて教師の側か子どもの側のどちらかが力尽きます。即ち「無気力」の段階へ移行するのです。結局、本質的な目的を考えれば両方が「負け」であり、勝者なき無益な闘いです。
これら誤った行動はすべて、元々が親切だからです。相手に無関心であればそんなことはしません。教師は、子どもに無関心ではいられません。しかし「片目を瞑る」ことならできます。凹んでいる部分、あるいは凸部についてはとりあえず見ないという方法です。
凹みを気にして埋める、あるいは凸の部分を削ろうという行為は、凹凸のあるものを丸くしようという行為です。つまりは多様性への否定であり、「あなたがあなたであることを認めない」という存在の否定です。「普通」「みんなと同じ」が善という、工業製品づくりの発想です。
逆でいけばいいのです。凹みは凹み、凸は凸として認めます。「認」という漢字は「言を忍ぶ」と書きます。自分にとっては気に入らないことだとしても、余計なことを言わずに忍ぶことです。
ためしに「動き回る子ども」に対し、制止する方向での関与をしないことにしてみます。むしろ先手をとって、動くことを推奨します。「トイレに行ってきたら?」「水飲みたいんじゃない?」などと声を掛けるのもいいです。「○○を取ってきて」などと頼るのもいいです。また、認めるとは「見てとめる」ということでもあります。
凹んだ部分よりも凸の部分を強く認識し、相手にその素晴らしさを伝えることです。「いつも○○してくれてありがとう。頼りになるよ」などと声を掛けるのです。凹んだ部分に囚われて、熱心な無理解者にならないこと。真の理解者として、凸の部分をこそ認めて伝えること。それこそが、不親切教師の目指す本当の親切であり、愛情です。
「不親切教育」の考え方は家庭での子どもとの接し方にも通じる
教育現場での保護者の要望への対応は、教師にとって重要な仕事です。しかし、すべての要望に応えようという義務感が強くなると、教師が疲れてしまうだけでなく、学校と家庭の信頼関係にも悪影響を及ぼすことがあります。