「ショー化する卒業式」、異常なこだわりで授業より優先される本末転倒な事態 膨大準備に違和感も"口出しタブー"で年々激化

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小学校が卒業式を迎える3月中旬。6年間の集大成として成長した姿を保護者に見せようと、この数カ月、教員・児童は必死に準備を重ねてきた。しかし、ときに授業を返上してまで行われる卒業式準備には、疑問を感じる教員も少なくない。本来なら、万全な授業準備や、中学進学に不安を抱える児童の学習サポートに回せたかもしれない時間を、来賓者のための「体裁のよい卒業式」づくりに費やしている現状を、どう捉えるべきか。現在、神奈川県内の公立小学校で児童支援専任教諭を務める齋藤浩氏の著書『学校に蔓延る奇妙なしきたり』(草思社 、2024年12月)から、一部抜粋・編集して解説する。

授業を犠牲にして準備するほどの価値があるのか

どの学校に赴任しても、卒業式の練習にはたっぷりと時間をかけている。小学校にとって、卒業式こそが6年間の集大成ということになっているのだ。

「立派な卒業式になるように、1年間頑張ってほしい」

6年生の担任になったある教員は、4月の学級開きでいきなりこんな言葉を口にしていた。立派な卒業式をクラスの目標にする意味は私にはわからないが、この教員にとって卒業式はそれほど大切な行事なのだ。であれば、時間をかけて準備をするのは当然、ということになるのだろう。

実際、時間をかけて卒業式の準備をしようと思えば、いくらでもそれができる。まず、子どもたちを体育館に移動させて、はじめに卒業式参列の心構えをたっぷりと説く。続いて式のあいだの椅子の座り方を徹底的に指導する。次に、起立と着席がてきぱきできるように繰り返し練習をし、そこから一人ひとりの返事の練習に移る......といった具合だ。

学校が特にこだわるのが、卒業式で合唱する歌の指導である。指導には、合唱コンクール以上に熱がこもっている。

さらにもう1つ、子どもたちそれぞれの「呼びかけ」も卒業式の華とされているため、手抜きはできない。

「この6年間、楽しい思い出がたくさんありました」

だいたいは感謝の言葉から始まり、

「私は将来、洋服のデザイナーになりたいです」

など自分の思いを口にする場面も登場する。

1人に一言ずつとなると、卒業する子どもの人数分のフレーズを前もって準備する必要があるし、スムーズに進んでも相当な時間がかかる。そのうえ練習の際には、声が小さくてセリフが聞きとりにくい子がいると、やり直しになったりもする。

こうした学年全体での練習に加えて、各教室でも返事の練習や呼びかけの声出しの練習、歌の練習を行っていて、合わせると計り知れない時間がかかっている。在校生が参加する学校の場合は、彼らと合同で一連の流れを練習することも必要になってくる。

その膨大な時間を算数の理解が不十分な児童の指導に充てることができたら、その子は中学校で苦しむことがなくなるのではないだろうか。作文指導の時間として使えれば、社会に出てからも役に立つ書くスキルが身に付けられるかもしれない。

そこまで具体的でなくても、たとえば現在、卒業式の準備に充てている時間を総合的な学習の時間にして、一人ひとりが自分の将来について具体的に考えてみる機会にしてもいい。未来を想定したうえで学習することで、子どもたちは幸せに生きるための術を身に付けられるのだ。

卒業式についても、やはりムラの掟のように、「卒業式に関して口出しするのはタブーである」、そんな暗黙の了解があるように思う。私は長いこと、あんなに時間をかけて準備するのは時間の無駄ではないかと考えているのだが、うかつにそれを口にすれば、「子どもたちにとって一生に一度の神聖な式を、先生は何だと思っているんですか」と、間違いなく非難の的になるだろう。

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