「ショー化する卒業式」、異常なこだわりで授業より優先される本末転倒な事態 膨大準備に違和感も"口出しタブー"で年々激化

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はたして卒業式に、そこまでの価値を見いだすべきなのだろうか。ときに授業を犠牲にしてまで準備に全精力を傾けることの是非を、今こそ議論すべきではないだろうか。

卒業式の練習は、何の役に立つのだろう

卒業式の練習をさせることで、子どもたちにどのような力が付くのだろうか。昔、先輩教員に尋ねてみたところ、少しの躊躇もなく、「日常とは異なる、厳粛な式に向かう姿勢!」という答えが返ってきた。

齋藤浩
齋藤浩(さいとう・ひろし)
神奈川県内公立小学校、児童支援専任教諭、佛教大学研究員、日本獣医生命科学大学非常勤講師を歴任。『保護者クレーム劇的解決 「話術」』(中央法規)、『学校に蔓延る奇妙なしきたり』(草思社)など著書多数。Instagram(hiroshi_saito4649)にて、保護者対応をはじめ教育関連の情報も投稿
(写真は本人提供)

はたして、そんなものが必要なのだろうか。以前、叙勲の式典に参列した知り合いに聞いたのだが、

「天皇陛下にも拝謁するのだから、特別な作法があるのかと思っていたんだよ。礼のしかたとか、じろじろ顔を見てはいけないとか、前もっていろいろ注意されるんだろうなと......。でも、実際には何の説明もなく、気づいたら陛下が式場に入ってこられていた。司会者がアナウンスをすることもなかった。何の前触れもなく式典が始まって、進んでいくんだ」

ということだった。

厳かな雰囲気ではあったが、決まりごとを守るのに汲々としているわけでもなかったようだ。もっとも厳粛と思われるような式典でも、そういうかたちで執り行われているのだ。

学校はいつも、子どもたちに「主体的であれ」と言っているのだから、卒業式の運営も子どもにまかせてみてもいいと思う。

式の流れは決まっているので、子どもにはみんなで歌う曲目と各自の呼びかけの言葉だけをまかせる、というのでは中途半端な主体性しか発揮できない。6年間の小学校生活の集大成が卒業式だというのなら、運営自体を任せるべきだろう。だが現実には、どの学校もそんな決断はできない。

6年生の担任だったとき、卒業式の練習についてどう思うか子どもたちに尋ねたことがある。

「寒い体育館で、長い時間ずっと座っていなくてはいけなくてつらかった」

「トイレを我慢していたので、とにかく早く終わってほしかった」

「歌の練習が大変で、途中で倒れそうだったけど頑張った」

 

これでは、まるで忍耐力を鍛えるために、長時間にわたって卒業式の練習をさせたようなものだ。体罰に近いようにも思える。

学校のもっとも重要な責務は、子どもたちが卒業して校門を出ていく日までに、しっかりとした学力を身に付けさせることだ。教員は、卒業式の練習に血道を上げる前に、その本来の役割を果たせたかどうか自問する必要がある。

卒業生それぞれがたしかな学力を獲得し、自分なりに未来の見通しをもって巣立っていく姿を見せられれば、それこそが素晴らしい卒業式ではないだろうか。大切なのは、体裁の整った儀式かどうかではない。卒業式の日までに子どもたちがどんな力を獲得できたのか、その過程にこそ学校は目を向けるべきなのだ。

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