羽生結弦が被災地に金メダルを持っていく理由 復興支援のためのオリンピック2連覇だった
被災地域訪問には、五輪金メダルを持っていく。「僕を知らない方も、2個の金メダルがあるだけで笑顔になってくれる。それって五輪の力だなと思っていて」。
ジュニア時代から「五輪で金メダルを」と望み、19歳で実現。そして29歳の今年9月、チャリティー演技会後の囲み取材で、「2連覇から被災地への支援をスタートしたい」という思いが五輪連覇の目的の1つにあったと明かした。
幼少期に抱いた五輪への憧れが、東日本大震災後「復興のために勝ちたい」と変わっていったとき、羽生の心にどのような動きがあったのか。
「それは、何だろう……。初めて考えますが、そうまどろっこしい過程ではなかった気がします」
誰かの力になりたい
原点にあるのは2004年、羽生10歳の冬にホームリンクを失った経験だという。経営難による閉鎖だったが、2006年に状況が変わった。トリノ五輪金メダリストとなった荒川静香氏の発言を契機に地元自治体が動いたのだ。2007年にリンクが営業を再開。「荒川さんのおかげで僕たちはまた練習できるようになったんです」。
金メダルの力を実感した。自分も金メダルを取って人の役に立つ活動をしたいと思った。羽生にとって金メダルは他者のためのものだった。「だから、震災の後、復興支援が金メダルの大きな目的になったのは、変化というよりはもっと自然な流れでした」。
生来、人を喜ばせることが好きな気質だ。「小さい頃は姉と同じように上手に滑って褒められたかった。僕のスケートを見た人が笑顔になってくれるのを何よりうれしく思った。金メダルはその延長線上にありました。だから改めて考えると、人に喜んでもらいたい気持ちはずっと同じ。全部つながっていたみたいです。自分でも今、納得しました」。
一方、メダルの力に頼れない瞬間もある。「復興支援のために滑るなら、それは今の自分次第。一人のスケーターとして全力を尽くします」。
演技会では、共演した被災地の演者の魅力を引き出すことに努めた。練習から本番までを公式フォトグラファーとして追った矢口亨氏は、「羽生選手は練習で、能登の若手奏者が叩く太鼓に合わせ自身の動きを調整することに、とくに注意を払っていた。地元奏者の気持ちを大切にする姿勢を強く感じました」と語った。
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