「日本で4番目」の電気鉄道、実は小田原にあった 東海道線や小田急より先、自前で発電所も建設
それから7年後、軌道線は再び大きく路線変更されることになる。当時、京浜方面から強羅に向かう行楽客は、小田原駅で改札外に出て軌道線に乗り換え、さらに箱根湯本駅で登山電車に乗り換えなければならず、不便を強いられていた。これでは箱根に直接乗り入れてくる京浜方面からの遊覧バスに対抗するのは難しく、小田原―箱根湯本―強羅間の電車直通運転の実施が、同社にとっての宿願だったが、資金難などから実現できずにいた。
この夢がようやく果たされたのが、1935年10月。小田原―箱根湯本間に新たに鉄道線を開通させ、強羅までの直通運転を開始した。工事内容としては小田原―風祭間に新線を敷設するとともに、風祭―箱根湯本間は、軌道線の「既設線路を一部改修」(『箱根登山鉄道のあゆみ』)し、鉄道線に転用した。
これにより軌道線は、鉄道線と経路の異なる小田原駅前―箱根板橋間(2.4km)のみに短縮され、路線が小田原市内で完結することになったため、「市内線」とも呼ばれるようになった。
その後、戦時下での一時的な運転休止などがあったものの、軌道線は最後まで「収益は好調」(『箱根登山鉄道のあゆみ』)だった。しかし、戦後の自動車交通量の増大による道路改修を機に、1956年5月31日を最後に廃止された。
小田原駅前から廃線跡を歩く
それでは、小田原駅前から箱根登山鉄道軌道線の廃線跡を歩いてみよう。
小田原駅前の乗り場がどこにあったのか、その痕跡を探してみると、駅東口の商業施設「トザンイースト」(旧・箱根登山デパート)1階の搬入車専用駐車場の脇に立っている「旧市内電車のりば」の案内板は、すぐに見つけることができた。
しかし、当時を知る人によれば、この位置に乗り場があったのは、廃止直前のほんの1~2年間のことであり、それ以前はもっと国鉄(現・JR)駅寄りの場所、現在は箱根登山バス、伊豆箱根バスの案内所になっているビルの位置にあったという。1954~1955年度に行われた小田原駅前整備拡張工事(1955年10月13日竣工)に伴い、乗り場が移設されたのだ。
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