「日本で4番目」の電気鉄道、実は小田原にあった 東海道線や小田急より先、自前で発電所も建設
同鉄道はその後、自前で水力発電所を建設。1900年3月までに全線の電化を完了し、商号も小田原電気鉄道に変更。京都、名古屋、川崎(京浜急行電鉄の前身・大師電気鉄道)に次ぐ、我が国で4番目、神奈川県内で2番目の電気鉄道開業となった。
そして、電化からおよそ20年後の1919年6月には、新たに箱根湯本―強羅間の登山鉄道を開業。早川橋梁(出山の鉄橋)の架橋をはじめ、7年にもおよぶ難工事の末に誕生したこの世界有数の登山鉄道は、「観光箱根の性格およびルートを一変」(『箱根登山鉄道のあゆみ』箱根登山鉄道刊)させた。
同じ頃、小田原の交通事情も大きく変わろうとしていた。元々、この地に馬車鉄道が敷設されたのは、小田原に東海道線が「来ない」ことが理由であったが、ついに東海道線が「来る」ことになったのである。これには、御殿場線ルートに関わる次のような事情があった。
「収益好調」でも廃線になった理由は?
御殿場線ルートは最急勾配25‰(1km走るごとに25m上る)という急坂が連続していることから列車後部に強力な補助機関車を連結しなければならず、機関車の配置や乗務員の過酷な作業等が、急増する輸送需要に対応する上でのネックになっていた。
こうした課題は早い段階から認識されていたが、この時期になると「御殿場経由の線路を建設した当時に比べれば、トンネル掘削の技術は格段に進歩」(『神奈川の鉄道 1872-1996』野田正穂ほか)していたことなどから、現在の東海道線ルート(国府津―小田原―熱海―沼津間)の建設が具体化したのである。
当時、「熱海線」と呼ばれたこの新ルートのうち、国府津―小田原間が1920年10月に開業すると、同区間で熱海線と小田原電鉄の軌道が、ほぼ並行することになった。これを受けて小田原電鉄は再三の検討を重ねた結果、同年12月、国府津―小田原(現・市民会館前バス停付近)間の軌道を廃止し、同時に、鉄道省線の小田原駅(現・JR小田原駅)前までの軌道(0.8km)を新設した。
その後、1923年9月に発生した関東大震災の被災などによる経営危機を経て経営資本が変わり、1928年8月に箱根登山鉄道(現・小田急箱根)が設立されると、小田原駅前―箱根湯本間の軌道は箱根登山鉄道軌道線(軌道線=路面電車)となった。
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