東芝不正会計に潜む「西田流辣腕」の功罪 「縮み上がるような目標を要求してきた」
調査報告によると、この「チャレンジ」という言葉は、西田氏、佐々木氏、田中氏の歴代3社長も、実現不可能な目標を事業部門に要求する際、特に役員らが参加する「社長月例」というトップ会議でしばしば口にしたという。
西田氏は2005年に社長に就任した際、投資家の信認を築くことが最優先との姿勢を明確にした。折しも多くの日本企業が四半期ごとの決算発表に動き出し、日本株を持つ海外の投資ファンドから利益拡大の圧力が強まっていた。前任者の岡村正氏とは違う西田氏の言葉には、そうした時代の変化も読み取れる。
当時のロイターとのインタビューで、西田氏は「2000年からは(業務目標を)毎年1回もクリアしたことがない。それが市場の信頼を損なっている。東芝の数字は結構堅い数字だということをわかってもらうことからスタートしなければいけない」と語っている。
PCの王者
東芝社内で西田氏の存在感が高まった決定的な要因のひとつは、1980年代に彼が下したラップトップ開発推進の決断だった。当時の東芝経営陣は市場実績のないラップトップ開発には消極的だったが、その懸念をよそに、西田氏は「欧米で1万台を売る」と宣言、販売に踏み切った。
1985年に欧州市場で売り出されたのは、世界初のIBM互換ラップトップ「T1100」。米国、日本などでも売れ行きが伸び、同氏の野心的な販売目標はほぼ達成された。この成功はその後、東芝製品が90年代の大半を通じて世界のラップトップ市場をリードする先駆けとなった。
「当時、ラップトップ市場の潜在力を理解している人はほとんどなく、西田氏はその数少ない1人だった」と、同社のエンジニアだった菅正雄氏は話す。「西田氏が販売を広げた中心人物だった」。
2000年初頭にかけIT業界を襲ったインターネット・バブルの崩壊で、東芝のPC事業は赤字に転落。その黒字化を託された西田氏は、設計・製造の外注や部品取引方式の刷新など様々な改革を実施、2004年度に目標を実現した。
しかし、2008年の金融危機でPC事業の収益が悪化する中、この新しい部品取引方式が会計操作の手段に変質する。
東芝の不正会計問題を調べた第三者委員会の報告によると、社長に就任した西田氏はPC担当部門に徹底した収益改善を繰り返し命令、現場は「押し込み」に傾き、製造外注先に売却する部品価格を釣り上げて利益確保を狙った。
2009年1月の会議で、2008年度下半期の営業損益が184億円の赤字になるとの報告を受けた西田氏は、その赤字を少なくとも100億円縮小するよう要求。第三者委によると、同氏は「死に物狂いでやってくれ」、「事業を死守したいなら、最低100億円やること。頑張れ」などと、利益拡大を求めたという。
さらに2月の「社長月例」会議で、PC部門の営業赤字が237億円に増えるとの見通しを聞くと、同氏は「チャレンジ」として160億円の収支改善を指示。最終的に、PC部門は「押し込み」による部品取引の操作によって、計上する赤字を92億円に食い止めた。