錯覚から探る「見る」ことの危うさ《第2回》--静止画なのに動いて見える

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 図2に示すように、丸い窓を通して外を見ているとしよう。そこに窓の端から端まで達する1本の線が見えていてそれが少し平行に動いて位置が変わったとしよう。このとき、線がどちらの向きに動いたかの情報はない。矢印(A~E)で示したようにいろいろな方向へ平行移動した可能性がある。しかし、どの方向へ動いた場合も目に映る線の動きは同じC方向への動きである。


■図2 A~Eのどの方向に線が移動したとしても、Cの方向に移動したように見える

窓枠問題のように動きの方向が一意には定まらない状況に出合ったとき、私たちの知覚は線に垂直な方向の動き(言い換えると、最も移動量の小さな動き)を感じやすいと仮定してみよう。
 
 この仮定を認めると、図1のオオウチ錯視がなぜ起こるかをある程度説明することができる。すなわち、次のように説明できる。

眼球の微小運動のために図は網膜の上でつねに細かく動いており、その動きの方向は、線に垂直な方向であると知覚される。オオウチ錯視では、図の領域と背景の領域は互いに直交する向きに短冊が並んでいるから、図と背景とは別の動きをしていると知覚される。

ただし、これはかなり乱暴な説明である。なぜなら、窓枠問題では、直線の端点が見えない(だから動きが一意には決まらない)のに対して、オオウチ錯視では短冊の端は見えているからである。

これにちゃんと答えられるわけではないが、次のような言い訳はできる。脳の中の視覚にかかわる細胞の中には、網膜のそれぞれの場所の狭い領域のみに反応するものが多数ある。その細胞にとっては、視野は狭く、したがって、1個の短冊が図2のように視野の外まで延びているために端点が見えない。
 
 これがどれほど正しい主張なのか、そして短冊の端点付近を受け持っている細胞の反応とどう折り合いをつけるのかなどについては、さらに考えなければならないであろう。

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