「TIC」はあらゆる領域で行うべき公衆衛生のアプローチ

──トラウマとは、どういうものなのでしょうか。

トラウマティックストレスといい、ストレスの一種ですが、主に3つの特徴があります。1つ目は、自分でコントロールできない体験であること。自然災害や事故のほか、日常的な虐待など被害が繰り返される環境も含まれます。2つ目は、恐怖や衝撃が大きいこと。そして3つ目は、普段の対処法が通用しないこと。トラウマの場合、睡眠や飲食、友達に話すなどの日常のストレス発散法では回復しません。

トラウマは誰にでも起こりうるものですが、大人よりも子どものほうが傷は深くなりやすいです。何らかの被害に遭った子に対して、大人は「ケロッとしてるから大丈夫」「幼いから記憶にないはず」と思いがちですが、何年か経ってトラウマ反応が出て苦しむことがあります。

また、同じ経験をしても、虐待されていた、被害時に守ってくれる人がいなかった、被害後も頼れる人がいないという環境が重なるほど回復しにくい。体験の内容や生育環境によって、トラウマ反応には個人差があります。

野坂祐子(のさか・さちこ)
大阪大学大学院 人間科学研究科 臨床教育学講座 教育心理学分野 教授、臨床心理士、公認心理師
専門は発達臨床心理学。お茶の水女子大学大学院 人間文化研究科 人間発達科学専攻 博士後期課程(単位取得後退学)、人間学博士(武蔵野大学大学院)。2004年大阪教育大学 学校危機メンタルサポートセンター講師、09年より同センター准教授。13年大阪大学大学院 人間科学研究科 臨床教育学講座 教育心理学分野 准教授。23年より現職。一般社団法人日本トラウマティック・ストレス学会理事、一般社団法人もふもふネット理事、一般財団法人日本児童教育振興財団内 日本性教育協会(JASE)運営委員、大阪被害者支援アドボカシーセンター専門支援員など。著書に『トラウマインフォームドケア“問題行動”を捉え直す援助の視点』(日本評論社)など
(写真:野坂氏提供)

──トラウマ反応について具体的に教えてください。

恐怖や不安などが強まる一方で、「怖い」「つらい」といった感情が感じられなくなるマヒ、過剰適応、過覚醒、体調不良などがあります。いずれも心を守るための反応ですが、問題行動に見えることがあるため、叱られてしまうなど周囲からケアされにくく、再び被害に遭ってしまうことも。そうなると助けを求めても無駄だと諦めてしまい、トラウマが雪だるま式に大きくなっていく子も少なくありません。いかに周囲が早期にその子のつらさをキャッチしてあげられるかが重要になります。

──TICとはどのようなものなのでしょうか。

身近な人に対して「トラウマの影響があるかもしれない」と考えて接することです。よく「トラウマのメガネを使う」という表現が使われますが、トラウマの影響を理解しながら、相手や自分の状態に気づき、さらに傷つけない対応をしていきます。

以前は、トラウマは「専門家にしか触れられないもの」と考えられていました。しかし、1980年代に米国で行われた研究では、高学歴で中流階級の中年期成人の約6割が、18歳までに家庭内で虐待やネグレクト、親のアルコール依存などの「家族の機能不全」を経験しており、そうした逆境的小児期体験が、現在の心身の健康や社会適応に悪影響を与えていたことが明らかになったのです。「そんなに多くの人が?」「過去のことで?」という驚きとともに、TICの概念が広まりました。

ほかの研究でも、トラウマは地域・人種・経済的事情などに関係なく、あらゆる人の身体的・精神的・性的な健康の問題であると確認されており、現在、TICは精神科医療に限らず、家庭・学校・地域・行政などあらゆる領域で行うべき公衆衛生のアプローチと位置づけられています。

──学校でもTICを取り入れるべきなのですね。

トラウマの影響による問題行動は、「暴言や暴力はよくないこと」という知識や指導だけでは変えられず、自分や他人を傷つけるリスクのある行動は続きます。子どもは「やめなさい」と言われても納得できず、「わかってもらえない」「自分ばかり怒られる」という被害感を強めて、教員との間に悪循環が生じるおそれもあります。親身になっても子どもの行動が悪化していくので、教員も怒りや無力感を抱くようになります。この怒りが体罰など不適切な対応につながることも。ですから、学校にこそTICは必要なのです。

学校で見られる「トラウマ反応」とは?

──学校ではどのような子どものトラウマ反応が見られますか。

トラブルとして目立つのは、過覚醒による落ち着きのなさ、多動、話を聞かない、攻撃的な言動など。例えば、家で暴力を振るわれている子が、友達の何げない言葉に反応して怖くなり、いきなり怒ったり友達を突き飛ばしたりしてしまうことがあります。

虐待やネグレクトを受けている、保護者のDV(ドメスティックバイオレンス)を目撃しているなど家庭が安全でない場合や、学校や地域でトラウマになる出来事(性被害や暴力被害、事件、事故など)があった場合、子どもはつねに人の目を気にして気配を察知するような警戒モードになるのです。こうした警戒モードを過覚醒といいますが、過覚醒の子は叱られるとますます行動が悪化していきます。

腹痛など体の不調に出るケースも一般的です。大人が子どもの話を聞かずに「仮病じゃないか」などと言ってしまうと、ますますトラウマが見えにくくなります。

大人の顔色を気にして頑張っていい子になってしまう子も、見過ごされやすいですね。家族のケアを余儀なくされて自分の気持ちを抑え込んでいるヤングケアラーも、学校ではお世話係として振る舞いがちで問題がないと見なされやすいです。こうした過剰適応の子たちは、思春期以降に不調を訴えることがあり、リストカットや過量服薬といった自傷行為で苦痛をなだめながら過ごしている子も多いです。

家庭での性的虐待や身内以外からの性被害による性的トラウマにより、ほかの子に同じことをしたり性的な言動が増えたり、思春期以降に再び性被害に遭うような行動を取りやすくなることも。また、性的トラウマに限らずさまざまなトラウマは、とくに男児では他者への加害につながることがあります。

教員が「トラウマを抱える子の対応」で気をつけたいこと

──学校はTICに取り組むうえでどのようなことに注意するとよいのでしょうか。

教員の熱意や経験だけではトラウマの影響は見えないので、まずはトラウマやTICの知識を持つこと。知識が「メガネ」となり、子どもや保護者、教員自身の状態が見えやすくなって適切な支援を計画しやすくなるでしょう。

「トラウマのメガネ」を使うことが大切
(イメージ:Graphs/PIXTA)

私が関わった小学校では、みんなが楽しく過ごしている場で急に部屋を飛び出す子がいたのですが、担任の先生は「あの子は変わっているから」と言うだけでした。しかし、いろいろな方に話を聞くと、その子は以前、ほかの子に囲まれて下着を下ろされ、笑われるという性被害・いじめを経験していたことがわかりました。笑い声を聞くとつらくなるため、笑い声のある場にいられなくなってしまったのです。

それを指摘すると、担任の先生は「そんな昔のことで?」と驚いていました。しかし、それこそがトラウマなのです。その後、先生が「あなたのことを笑っているのではないよ」と伝えながら一緒に楽しい時間を重ねることで、この子はお楽しみ会などに参加できるようになりました。

ただ、TICは即効性のある支援技法ではなく、例えばトラウマに起因する万引きや性の問題行動などもすぐに変わるものではありません。先生は短期での子どもの成長を求められがちですが、変化には何年もかかることを理解したうえで、なぜ問題行動を起こしてしまうのかじっくり話を聞き、それをしなくて済む生活に変えていく支援を考えていただければと思います。

――トラウマによる過覚醒の状態は、発達障害(ADHD:注意欠如・多動症)の行動と似ている場合もありませんか。

発達障害とトラウマを併存している子も多く、見分けるのは難しいですね。特性のある子は育てにくかったり人間関係の構築が難しかったりする面もあり、虐待やいじめに遭いやすい傾向があるのでトラウマも抱えやすいのです。しかし大切なのは、見分けることよりも「その子に困り事や被害体験があるのでは」という視点で、いつどんな状況で落ち着きがなくなるのか、生活環境とともに見ていくことです。

──トラウマを抱えた子の対応ではどんな点に気をつけるべきでしょうか。

叱責や体罰で支配しようとするのは論外ですが、かといって、TICはその子の言いなりになることでもありません。学校でのルールを示しつつ対応に融通を利かせ、その子が変われるよう支援計画を立てましょう。

また、腫れ物に触るような対応もその子を傷つけます。トラウマを再度負わせるのは避けるべきですが、トラウマは千差万別で何がリマインダー(引き金)になるかはわかりませんし、誰しもコミュニケーションの失敗は起こりうるもの。「これがつらい」と言われたら、「そういうときにつらいんだね。次から気をつけるね。教えてくれてありがとう」と返す。大切なのは、コミュニケーションを絶たないことです。

トラウマを抱える子は、特定の場面が怖かったり、気持ちを上手に表現できなかったりするので、安心して発言できる学級づくりも重要です。先生がすべて決めて導くというより、先生も子どももお互いに人間としての感情を言えるような、セラピューティックな(回復しやすい)場にすることが大事です。

そもそも「先生を取り巻く環境」がトラウマティック

──保護者対応でもTICの視点は有効でしょうか。

保護者が怒鳴り込んできたときなども、「トラウマのメガネ」で見てみると、相手が不安で声が大きくなっていることに気づき、「どうされましたか。その点を不安に感じられたんですね」と落ち着いて対話できるようになります。ただし、要求が強い保護者に対し、「できないことはできない」と線を引くのは管理職の仕事です。

――ほかに管理職が心がけることはありますか。

子どもの安全感を高めるには、まず教員の安全感とチームづくりが不可欠ですので、職員室を安全な場にすることです。

そもそも今、先生方を取り巻く環境はトラウマティック。労働時間は長く、子どもや保護者の対応で傷つく場面は多いでしょうし、同僚や管理職に守ってもらえない、地域や社会が学校に敬意がないといった状況に苦しまれている先生も多いと思います。幼少期のトラウマがある先生は、同じようにつらい思いをしている子どもを支えたいと思う一方で、学校には子ども時代を思い出すきっかけがたくさんあり、過去の傷がうずくつらさもあるでしょう。

こうした中では、先生にもしばしばトラウマ反応が起こります。トラウマ反応は誰にでも起こることだと知ることで救われる先生もいるはずで、そのためにも先生がトラウマやTICの知識を持つこと、管理職が心理的に安全な職員室をつくることは重要になります。

ある小学校では、被虐待児が多く、教員がさまざまな苦労をして関わり、もう打つ手がないという状態でTICを取り入れました。まずは「職員室を先生の避難所にしよう」と決め、先生が抱えるしんどさや愚痴を職員室で話せるようにしたところ、トラブルを担任の力不足だと責めたりすることがなくなりました。

すぐに子どもの状態がよくなるわけではないですが、そういう職場に変われた学校は子どものよいところを見られるようになり、子どもの行動が前向きになっていくケースも。悩みを相談しにくる子が増えたというお話もよく聞きます。

管理職も孤立しがちなので、教員と対等な関係性を持つべきで、本来なら外部の専門家によるサポートが受けられるシステムも望まれます。学校が「安全で、相互に信頼できて、話し合える場」になるには、日本社会全体が「傷つきは恥ではない」と捉えられるようになることも必要だと思います。

(文:吉田渓、注記のない写真:Satoshi KOHNO/PIXTA)