教師にとっても「マルトリートメント」は隣り合わせのもの
──「教室マルトリートメント」は、ご自身による造語だそうですね。
マルトリートメントとは「不適切な関わり」という意味です。主に欧米では「チャイルド・マルトリートメント」という表現が広く知られていますが、これは「子どもへの不適切な関わり」全般を指します。「子どもへの不適切な関わり」というと、日本では虐待やネグレクトなどが思い浮かぶかもしれませんが、チャイルド・マルトリートメントにはもっと広い意味があり、日常的な無関心や高圧的な指導なども含まれています。
実はこのチャイルド・マルトリートメントは、親子だけではなく、教室の中にいる教師と児童・生徒の関係においても無縁ではありません。
私は、担任という立場に加えて、特別支援教育コーディネーターという立場で10年間、特別支援学校に限らず地域の幼・保・小・中・高と巡回相談に出向いていましたが、その中で教室における不適切な指導を数多く見聞きしてきました。
体罰やわいせつ行為に関しては防止に向けた教員研修も数多く開催されていますが、こうした違法なケース以外にも不適切な指導がたくさんあるのです。例えば、高圧的な指導で子どもたちを締め上げているケース。そういう学級は、表面上は落ち着いて見えることもあるので大きな問題になりにくいのですが、学校ではこうしたグレーゾーンの指導や関わりがよく見られます。
私はそこに違和感を抱いていて、教師にとってもマルトリートメントは隣り合わせのものだと感じていました。それを強調したくて、教室マルトリートメントという言葉を作りました。
──もう少し詳しく、教室マルトリートメントの具体例を教えてください。
本来、教師とは子どもたちの成長や発達を応援する立場。それと異なる立場で行う指導は、基本的に教室マルトリートメントだと考えています。もちろん体罰やわいせつ行為といった違法行為も含みますが、それ以外でよくあるのは、ネグレクトに類似した関わりと、心理的虐待に類似した関わりです。
褒めるべきときに褒めない、子どもの話を聞かない、必要な支援を行わない、子どもにとって危機的状況が起こっているのに関知しようとしないなどは、教師の指導的立場を放棄しているのと同義ですから、ネグレクトに類似した指導と捉えられます。
心理的虐待に類似する指導としては、威圧的・高圧的な指導をする、事情を踏まえず頭ごなしに叱る、忘れ物をしたときや漢字の「とめ・はね・はらい」に必要以上にダメ出しするなど、子どもたちの意欲を失わせるような対応が該当します。
教室マルトリートメントが子どもたちに与える3つの悪影響
──教室マルトリートメントは、子どもの成長にどのような影響を及ぼすとお考えですか。
子どもの立場からすると、3つの悪影響があるのではないでしょうか。
1つ目は、不登校や登校渋り。感受性の強い子だと、重苦しい雰囲気だけで学校に行くのが嫌になってしまうと思います。また授業中に、指名されてすぐ正解を言えるタイプの子は、積極的に挙手しても「賢いためにすぐに答えを言われてしまうから」などの理由で指名してもらえなくなることがあります。そういうことが続くと、子どもの中に「頑張っても報われない」という気持ちが芽生え、不登校、登校渋りにつながる場合もあります。
2つ目は、学級の監視社会化。例えば、教師が厳密なルールを設け、誰かがミスやエラーをするたびに叱るとします。それが学級の正義になってしまうと、「先生、あの子がこういうことをしました」などのネガティブな報告をするようになる。とくに先ほど言った、頑張っても報われない子が努力を認めてもらいたいあまりに監視役の一端を担いがちです。そして、ミスやエラーを指摘されがちな子も、自分より弱い立場の子を見つけて「あの子もこんなことをしています」と報告するようになり、学級全体が監視社会化するおそれがあります。
3つ目は、主体的に考えて行動する子が育たなくなるということ。子どもたちは先生の機嫌を損ねないよう、つねに顔色をうかがいながら行動するようになり、忖度(そんたく)することを学びます。悪いことはしなくなるけれど、よいこともしなくなり、結局主体的に考えて行動しなくなってしまいます。
──教室マルトリートメントに陥りやすい教師の特徴などはあるのでしょうか。
過去に受けてきた教育歴や初任時や若手時代に出会った教師の考え方・言い方が影響しているケースや、「こうあるべき」という思いの強い教師が焦りから陥ってしまう傾向は見られますが、教師の誰もが皆、教室マルトリートメント予備軍です。
文部科学省や教育委員会も求める教師像などを打ち出していますが、教師という職業には「こうあるべき」という美学が付きまとっています。教師の心の中にもそれぞれ美学やプロフェッショナリズムがあり、その期待値に達していないと恥ずかしさが生まれ、それが焦りになって子どもたちに向かうわけです。
また、他者からの評価に関わる対外的な恥ずかしさもあります。例えば、運動会や発表会などはやはり出来栄えを意識するので、期待値に達していないと恥ずかしいと思ってしまう。それで子どもたちに強い圧をかけてしまう教師は少なくありません。
教職はこの対内的な恥ずかしさと対外的な恥ずかしさの二重構造でできていて、感情が揺さぶられる場面が幾度となく押し寄せてきます。それで心がざわついて、不安や焦りを子どもたちにぶつけやすくなってしまう。だから、感情は揺さぶられるものだし、それをコントロールすることに対して給与が支払われている職業だと認識し、教壇に立つことが大事だと思います。
──教室マルトリートメントが横行する学校には、何か特徴がありますか。
職員室にまずい雰囲気が漂っています。例えば、職員室の学年団の会話が「今日はあの子を泣かせてやった」といった武勇伝だったり、子どもの失敗をあげつらって盛り上がったりすることがあります。そういう学年団の先生に受け持たれる子どもたちは、やはり落ち着きがないです。
教師が「子どもの安全基地」であるためにできることとは?
──防止策や改善策はありますか。
管理職は、先ほどの「恥ずかしさの二重構造」を理解し、「それにとらわれなくていいからね」と繰り返し言ってあげることが大事。そういう管理職がいるだけで安心できるのではないかと思います。
また、私自身も「いい歳して叱られちゃった」「あの授業での一言は余計だったなあ」などと、自分の失敗や反省をフランクに話すようにしています。そうすると、「その言葉は学級によくない風を吹かせていたかもね。でも次があるよ」というふうにお互いにアドバイスし合えるようになります。管理職や先輩が率先し、自己開示できてトライ&エラーが認められる朗らかな雰囲気をつくっていくことが大切だと思います。
ただ、今は職場にそういった寛容さを求めるのは難しい時代だとも思っています。次から次へと新しい仕事が上から下りてくるような上意下達が強い流れになっていて、最近では新型コロナ対策もあるので放課後の職員室にはまったく余裕がありません。
さまざまな方針も有識者の声が優先されて現場の声が反映されず、教師も上からの圧を感じているような状態にあります。教育委員会が主催する研修会も温かく豊かな気持ちになって帰れるものだとよいのですが、圧をかけるような内容や雰囲気であることも少なくありません。実はこうした上からの連鎖が、教室マルトリートメントを引き起こしていると考えています。
──反面教師しかいないような職場の場合、教師が個人でできることはありますか。
子どもたちの安全基地になるのだと自覚し、周囲からの圧があってもそれを押しのけて明るく機嫌よく子どもたちに接することができなければ、教室マルトリートメントはなくならないと思います。そのためにもまずは自分の「安全基地」を外に見つけることが大事だと思います。
外部の研修会や研究会、セミナーなどに自ら出かけ、「いいな」と思う先生がいたら、その方の本を読んで「自分の考え方は間違っていない」と感じること。遠くて会えない、亡くなっていて会えないといった人の考えから学んで安全基地にするやり方もあります。つまり「私淑」することが大事です。
例えば私自身、高校で生活指導を受けたときに、ある先生から「おまえ、教師になれよ」と言われました。先生曰(いわ)く「大人への反発心や、もがく気持ちをわかっている大人こそが学校現場には必要なんだ」と。そのときは笑って返しましたが、今となってはその言葉は重く、「自分はつねに子どものもがきの代弁者であるか」と問い続けており、先生が他界されてからもそれが教師としての指針になっています。そんなふうに、人は出会い一つでやっていける場合があります。
──教育委員会や文科省に求めたいことはありますか。
いちばん大切な現場とのラポール(信頼関係)が築けていないように感じます。もっと現場の教師の声や子どもの声に耳を傾けていただけるとよいのですが、「あれもやれ、これもやれ」「あれもやるな、これもやるな」ばかりで、現場の教師たちに「自分たちは信頼されていない」と感じさせてしまっている。子どもだって「この先生、自分のことをわかってくれない」と思ったら授業は聞かないし、何を言っても響きませんよね。それと同じ状態になってしまっている今、まずは現場の声に耳を傾けていただき、教師がゆとりを持って子どもたちと向き合えるようにしていただいたほうが現場は頑張れるのではと思います。
このように厳しい状況下ですが、教師が最優先すべきは子ども。子どもたちとの1つひとつの瞬間を大切にし、温かく心地よい風で教室を包むことが大事だと思うのです。そのためにも現場にいる私たちは「自分も無自覚のまま教室マルトリートメントに陥る可能性がある」という視点を持ち、いつも機嫌よく笑顔で子どもたちと接していくことが重要だと思っています。
(文:田中弘美、注記のない写真:Graphs/PIXTA)