アメリカでもう1人、影響を受けた人がいる。同級生から紹介されて会った20代のアメリカ人男性だ。女性と同じように先天性の難聴で、音楽が好きで楽器の演奏もしたいのに、講師には「聞こえない人に教えたことがない」と断られるなど、道を閉ざされる経験をしていた。
この男性は、聞こえる人は優れており、聞こえない人は劣っているとして差別することを「オーディズム」と呼んでいた。「音楽ができない」「勉強ができない」といったろう者に対する聴者のイメージにより、ろう者の可能性が閉ざされていることを嘆いていた。男性はYouTubeなどで「動物は言葉を話さない。じゃあ動物は人間より劣っているのか? そうではない」と訴えていた。その後、自殺した。理由はわからない。
女性は「彼の生きづらさがよくわかるので、自分もそうなる可能性があると思っていました。私たちのようなろう者を増やしたくない」と語る。
可能性を閉ざさない
教員を志したのは、そのころだ。アメリカのろう学校で、小中学生に将来の夢を聞く機会があった。子どもたちはなりたい職業よりも、「自分はバカだから」「周りの大人がそうだから」といったイメージで将来を考えていた。
日本のろう学校で知り合った子どもたちも同じことを言っていた。手話を使えば、子どもたちは豊かな表現をしたり深い考察をしたりと、それぞれに光る才能がある。しかし聴覚障害があるというだけで、自分の可能性を閉ざしている。
「子どもたちの様子を見ていると、自分の経験が何か役に立てるのではと思いました。それぞれが『できる』ことを、親や先生、何よりもその子自身が考えて学ぶ力を育てたいと思ったんですね。私は苦しかったけれど、大学院や留学をして聴覚障害に関して専門的に学ぶ機会に恵まれたのはたしかで、自分の『できること』がポジティブになるかもと思いました」
日本に戻り、教員になってまもなく10年になる。
社会には今も、ろう者に対して「かわいそう」「頭が悪い」「音楽に親しまない」といった先入観があると女性は感じている。ろう者の中にも、手話はできるのに日本語がうまく読み書きできないことを理由に「勉強ができない」と思い込む子が多い。そんな子には、「手話はばっちり。日本語に置き換えるのがまだ難しいね」と伝えている。
手話と日本語を区別して評価すると、自信を持てる子どもは多いからだ。聞こえないことを理由に、できる、できないを評価するのではなく、その子の得意なことと苦手なことを見つめ、一緒にどうするかを考えられる教員になりたいと思っている。
女性は「それぞれが持つ才能をそのまま発揮できる社会になればいいと思います」との思いを私に伝えてくれた。
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