高校国語「現代の国語」は教員泣かせ? 文章ジャンルで科目分けに賛否両論の訳 実践的なシチュエーションの再現難しく「困惑」
「入社後の研修期間は年々短くなっており、社会人の基本的なスキルを育成する機会はどんどん前倒しされています。そのシワ寄せがついに高校に及び始めたとも考えられます。ただ、教育内容と実社会には10年のタイムラグがあるといわれています。例えば、新学習指導要領の作成時にChatGPTの出現はまったく予想されていなかったでしょう。今後はこうした社会の動きに合わせたアップデートがなされるべきです」
「国語総合」の分断で授業がやりにくくなるおそれ
では、実際の学びにはどんな変化が起きるのだろうか。
「結果よりプロセスが重視されることで、生徒は自分の思考過程を自覚し、より合理的で効率的な見方ができるようになるでしょう。探究的な活動も増えるので、主体的かつ対話的に考える力も伸びると思われます。一方、『国語総合』が『現代の国語』と『言語文化』に分かれたことで、授業がやりにくい部分もあると思います」
前述のとおり、「現代の国語」の授業では論理的な文章と実用的な文章を、「言語文化」の授業では文学的な文章を扱う。科目の分断が、どう影響するというのか。
「『現代の国語』と『言語文化』で育成する能力は、教員としては一緒に伸ばしていきたいものなのです。例えば、契約の場面を考えてください。契約書は一文一意の文章です。これを読み解いて理解するだけなら、『現代の国語』で上辺だけ文章をさらえば事足りるでしょう。

しかし、実際の契約は論理的・実用的な文章のやり取りだけで成り立つものではありません。そこには必ず、感情や心情が絡む人間同士の関わりがあります。会話の中で、書面にはない情報を教えてもらったり、トラブルに発展する前に懸念を解消することも必要です。『現代の国語』の目的に、実社会における実践的な社会経験を積ませることがあるなら、むしろ、文学的な文章とトータルで、相手の心情や多種多様なシチュエーションを押さえながら学ばせるべきなのではないでしょうか」
文章ジャンルで科目を分ける意味はあったのか
また、科目を文章ジャンルで分けたことで、俯瞰的・統合的に捉える力が伸ばしにくくなった可能性もあると清田氏は指摘する。
「例えば、科目が『年代』で分かれていれば、時代背景を同じくしたさまざまな文章を横断的に網羅できます。しかし文章のジャンルで分けると、たとえ同じ題材を扱った文章であっても、『この文章は取り上げられない』ということになります。現場の教員はこれまで、知識と知識を結び付ける授業を意識していましたが、今後はそれが難しくなるおそれがあります」
一方で「現代の国語」の登場には、従来の国語教育の反省も見られると清田氏は語る。
「実用的な文章が社会にたくさん存在することは事実です。それにもかかわらず、長い間これらを国語教育で十分に取り上げてこなかったのは反省すべき点でしょう。だからこそ、『現代の国語』という科目として独立させてまで『実用的な文章を取り上げてください』と要請したのは効果的だと思います。『国語総合』のままで要請しても、結局は現場の裁量で従来と同じ授業が行われ、実用的な文章は扱われなかった可能性もあるでしょう。ただし、実用的な文章を扱うなら、その教育的価値を考える必要があります。なぜ、社会の公民ではなく国語で契約書を扱うのか。契約書を読ませること自体が目的なのか。現役の国語の先生には契約の専門的な知識や経験があるわけではないので、戸惑いが生まれるのも当然でしょう」