日本経済支えた北海道のニシン漁と「国鉄岩内線」 鉄道は廃止されたが伝統の食文化は根付いた

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江戸時代に入ると、徳川家康から蝦夷地の統治者として認められた松前藩が成立した。松前藩は、米の取れない無石の藩であったことから「商い」が藩財政の支えとなっており、北海道はもとより樺太や千島列島各地に商場(あきないば)を開き、漁業やアイヌとの交易拠点を整備する。それぞれの商場では、ニシンや昆布などの漁が行われたほか、アイヌとの物々交換により入手したラッコ皮や鷹などを北前船による交易を通じて本州各地へ販売した。樺太と北海道各地と大阪との間を日本海と瀬戸内海経由で結んでいた北前船は、ただの運送船ではなく寄港したそれぞれの港で北前船自体が各地の特産品を売り買いしていたことから、海の総合商社としての機能も持ち合わせていた。

松前藩成立当初は藩主自らが各地に交易船を送り、松前に支店を置いた近江商人が実務を支えていた。しかし、次第に交易の仕組みが複雑化してくると「商い」が武士の手には負えなくなってきたことから、各商場の交易権そのものを商人に代行させて藩は運上金という金銭による租税を得るという場所請負制へと移行した。

岩内もこうした松前藩直轄の商場の一つとして藩の出先機関が置かれ、ニシンなどの特産品と米や味噌などの日用品の交易が行われ住民の生活を支えていた。

江戸時代後期の1800年代に入ると不凍港を求めて南下政策を進めるロシア艦による樺太や利尻の和人地の襲撃事件がたびたび発生する。ロシアに対する警戒心を高めた江戸幕府は1807年に北海道と樺太、千島列島を幕府直轄地として東北諸藩に警備を命じ開拓を推し進める。明治維新を迎えた1869年には岩内に新政府の役場が置かれた。

岩内線の開業とニシン漁

明治維新後も岩内と各地を結ぶ北前船による交易はしばらく続くことになる。しかし、1872年に新橋―横浜間で開業した鉄道は、1891年には上野―青森間が全通するなど全国への延伸を続け、北前船はその役割を鉄道に譲る形で徐々に姿を消していった。

現在の岩内町全景(筆者撮影)

岩内での鉄道開業は比較的早く、函館本線函館―小樽間が開業した翌年の1905年に民間の手により岩内港と函館本線小沢駅との間を結ぶ岩内馬車鉄道が開業。その後1912年に岩内馬車鉄道を置き換える形で国有鉄道の岩内線岩内―小沢間14.9kmが開業した。岩内のニシン漁は1960年代初頭まで豊漁が続き、鉄道もこうした海産物の輸送に活況を呈した。国鉄貨車の争奪戦は苛烈で、貨車については当時の魚場では5トン車や15トン車とは言わず、ワフやワムなどの形式称号で通用していたという。

国鉄岩内線は、相次ぐ国鉄の労使闘争やサービスの悪さなどにより荷主や旅客の信用を失い貨物輸送はトラックに、旅客輸送も便数が多く小樽経由で札幌を直結する高速バスに客を奪われ1985年に廃止されてしまう。しかし、かつてのニシン漁により育まれた伝統の食文化は今も脈々と岩内に続いている。

櫛田 泉 経済ジャーナリスト

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くしだ・せん / Sen Kushida

くしだ・せん●1981年北海道生まれ。札幌光星高等学校、小樽商科大学商学部卒、同大学院商学研究科経営管理修士(MBA)コース修了。大手IT会社の新規事業開発部を経て、北海道岩内町のブランド茶漬け「伝統の漁師めし・岩内鰊和次郎」をプロデュース。現在、合同会社いわない前浜市場CEOを務める。BSフジサンデ―ドキュメンタリー「今こそ鉄路を活かせ!地方創生への再出発」番組監修。

 

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