日本経済支えた北海道のニシン漁と「国鉄岩内線」 鉄道は廃止されたが伝統の食文化は根付いた
ニシン漁には多くの人手を必要としたことから漁期に合わせてヤン衆と呼ばれる多くの漁師が東北などの国内各地から岩内にも集まった。筆者の祖先となる尾崎和次郎も江戸時代後期から北海道のニシン漁に携わり、その後、青森県となった津軽藩の鰺ヶ沢から岩内へと移住した漁師の1人だった。津軽藩は度重なる飢饉に見舞われたことからニシンの豊漁に沸く新天地を求めて移住をしてきたと伝えられている。
このように江戸時代からニシン漁と北前船の交易によって栄えた岩内町であるが、それ以前の北海道の歴史についても知る人は少ない。
近畿地方に政権を置いた古代日本がその勢力を東北以北に拡大するために行われた蝦夷征伐は北海道にも達しており、飛鳥時代の605年には、阿部比羅夫の蝦夷征伐で後方羊蹄(しりべし)に郡領と呼ばれる行政官を置いた。函館本線比羅夫駅がある後志(しりべし)地方の倶知安町比羅夫の地名はこれにちなんだものだ。さらに札幌市に隣接する江別市には飛鳥時代から奈良時代にかけて築かれたとされる江別古墳群が現存しており、飛鳥時代にすでに道央地域まで和人が達していた痕跡がある。
平安時代後期からアイヌ文化が登場
稲作ができなかった北海道では本州以南で稲作が普及した弥生時代以降も縄文時代の生活様式が継承された続縄文時代が続き、飛鳥時代から鎌倉時代にかけては北海道独自に普及した擦文土器を使用した擦文文化が栄えていた。一方で、北海道東部のオホーツク海沿岸では、これとは異なる文化を持った海洋漁猟民族のオホーツク人が居住していた。アイヌ文化が登場するのは和人との交易によって鉄器が普及し土器が消滅した平安時代後期から鎌倉時代後期頃となる。
道南地域の渡島半島には平安時代後期までに多くの和人が定住し、1135年には北海道最古の神社となる船魂神社が函館に創建された。鎌倉時代から室町時代にかけて和人の居住地は、太平洋側は鵡川方面へ、日本海側は岩内・余市方面へと海岸線沿いに広がった。
室町時代の1457年に函館の和人鍛冶屋が口論の末、アイヌ男性を刺殺したことがきっかけとなり発生したコマシャインの戦いでは「岩内にあった和人の村も襲撃され犠牲者が出た」という逸話も地元のお寺に言い伝えられている。
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