運動嫌いを増やしてしまう学校の体育の常識、「全員できる教」が大問題の訳 「体育嫌い」なくす不親切教師的体育指導の勧め
評価が子どもの動きを引き出すというのは、とくに体育科においては大切なポイントなのだ。
体育科では「できる」以外の目標を
私は、千葉大学教育学部附属小学校で体育科を専門に研究していた時期がある。当時から「自ら運動の楽しさを追求する」が基本テーマで、今でもその流れは続いている。体育科において「できる・できない」に着目すると、どうしても無理や行き詰まりが出るからだ。
しかしながら、昔から学校の体育科研究は、「できる・できない」に特化したものが多かった。この理由は明確で、学校において「できるようにさせる教師が有能」と見なされている時期が長く続いたためである。また、中学以降でも、部活動で優秀な成績を出せる指導者がもてはやされてきたからだ。どんなに子どもが嫌がる理不尽な指導をしても、結果を出せば認められるという暗黒時代が長く続いてきたのである。
そもそも体育が嫌いになってしまう理由は「痛い(または苦しい)」「怖い」「できない」に集約される。これら3つは、「できる」を強硬に目指すと、どうしてもぶち当たる壁だ。「痛い」「怖い」「できない」を代表する体育の授業代表といえば、器械運動である。とくに跳び箱には恐怖心を持つ子どもが少なくない。実際、跳び箱が跳べなくても人生においてまったく問題はない。

跳び箱運動における切り返し系の運動では、踏み切り板による第1跳躍と、跳び箱上の着手による第2跳躍の2段階のジャンプがある。あのような運動は日常生活においてほとんどない(高い塀に向かってジャンプして腕で飛び乗るときぐらいである。アクションスターか、追われる身にならないとなかなか使わない)。
ただ、自分の体への気づきがあるという点において、跳び箱という教材は有用なのである。跳び箱運動であれば、「跳び箱という壁を乗り越える」から始めればよい。よじ登って、乗って、降りれば合格だ。高さも向きもいろいろと変えて、楽しめばいい。
例えば「体育館のステージ上によじ登る、跳び上がる」というような運動も楽しい。こういう運動を、低学年からたくさんしておく。やがてその中で、跳び箱上に着手して跳び越す動きを入れることがあってもよい。そういう下地をじっくりつくっておけば、中学年以降で開脚跳びのような運動も抵抗なく行えるようになる。
一方で、跳び越えることができなければそれでもいい。「できる」を目指すかどうかは、本人ができるようになりたいと心底願っているかどうかである。開脚飛び程度であれば「できる」ための手法はいくらでもあるから、本人が願う場合はそれをすればいい。そうでなければ、先にも述べたように日常生活では使わない動きなのだから、乗り越える運動程度の位置づけで抑えておけばよい。
とにかく、跳び箱自体を嫌いになることだけは避けねばならない。生涯を通じて運動に親しむ資質を育てるという目的からぶれないことが大切である。
なぜ体育の授業は「できる」にこだわりがちになってしまうのか
なぜ、体育科は「できる」に力がいきすぎてしまうのか。自著『不親切教師のススメ』にも書いたが、いまだに体育の考え方が一律の目標達成型だからである。この点は、算数科にも似たことが言えて「全員できる教」のわなに陥りやすい。