運動嫌いを増やしてしまう学校の体育の常識、「全員できる教」が大問題の訳 「体育嫌い」なくす不親切教師的体育指導の勧め

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体育科では本来「マラソン」のような過酷な運動は、いっさい求めていない。あくまで「持久走」であり、その位置づけも「C 陸上運動」内にはない。高学年だと「A 体つくり運動」の中の「イ 体の動きを高める運動」の中の「(エ) 動きを持続する能力を高めるための運動」という、ごく小さいカテゴリー内での例示である。それも「無理のない速さで5~6分程度の持久走をすること」という一文だけである(低学年と中学年もほぼ同様の位置づけで、それぞれ「2~3分」「3~4分」だ)。

要は、気持ちよく数分間走り続けられれば目標達成ということである。無理のない速さとは、走りながら風景を眺めたり体で風を感じたりできる程度の速さであり、本来楽しい運動である。生涯体育の視点からすると、健康のために行っている趣味のジョギングやウォーキングがこれに当たる。

しかし、実態はまったく違う。「校内マラソン大会」で見られる走りは、「無理のない速さ」とは程遠い、息を切らして倒れんばかりの必死の形相のレースである。

保護者や全校児童といった、多くの観衆の中で競争をさせているのだから、当然である。また徒競走と違い、苦しみが数分間にわたるため、精神的にも肉体的にも苦行だ。なぜ、それでもやるのかというと、「子どもの肉体と精神の鍛練の場だから」だという。そういう高尚なことは、別にここで多くの人目にさらしながらやらずともよい。

一方で、実際は「保護者が要求するから行事として切れない」という学校側の悲痛な本音もある。持久走の得意な子どもの親からすれば、わが子の大活躍の場であるから、自然な要求である。さらに「私たちの子どもの頃にもあったから」という主張もあるが、時代は変わって学習指導要領も変わったのである。

どれも、多くの子どもからしたら、小さな親切、大きなお世話である。そもそも、学校側がいちばんの指標である学習指導要領を完全に無視しているからこうなるのである。

生涯体育の視点からすれば、先に示したように、将来的にジョギングやウォーキングに親しむような人になってほしいわけだ。それは多くの場合「校内マラソン大会」のような競争的行事から生まれる姿ではない。本来の目的に立ち返ることが肝要ではないだろうか。

これからの体育は「選択」がキーワード

持久走の指導で大切なのは「走ることって気持ちいい」という感覚を育てることである。「自分には、実はこんなに長い時間走れる力があるんだ」と実感させることである。

例えば、私が持久走の指導をするときは、時間を指定する。「3分間」に始まり、「5分間」「7分間」「10分間」と延ばしていく。本来5~6分間走れればそれでいいのだが、10分間も余裕で走れることを実感すれば、走ることへの抵抗感がなくなるためである。

これをやっていると「長く走るにはゆっくり走る必要がある」と自然に学ぶ。自分でペースの選択ができるようになるのだ。「逆に短い時間のほうが、自然とペースが上がるからきつい」という意見も出てくる。この「運動への気づき」こそが、本来体育科の学習指導要領の狙うところである。

これからの体育には「選択」という考え方を持ち込むとうまくいく。いくつかの例示を中心に、ほかも選べるというものだ。

その際、「何を選択肢として示すか」と「何を評価するか」が指導のポイントとなる。この場合、ペースは自分で選べる。どんなに速く走ろうとも決まった時間を走るとなれば、それはレースにはならない。しかし、そこで「周数」を競わせたり、多く走った子どもを称賛したりすれば、それはレース化する。一方で「5分間歩かずに走り続けられた」という点のみを評価すれば、それは子ども自身の選択次第で成功できる。

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